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少し前のニュースだが、売野機子(著)『ありす、宇宙までも』(小学館)が本年(2025年)のマンガ大賞に選ばれた。『チェンソーマン』で知られる藤本タツキも“ながやまこは宇宙飛行士の環境はどれほど過酷? 藤本タツキ、絶賛の漫画『ありす、宇宙までも』の描写を交えて考察る”名義のXにて絶賛の言葉を記していた。
ありす、宇宙までも が面白かったのでオススメです。
— ながやま こはる (@nagayama_koharu) August 30, 2024
週刊ビッグコミックスピリッツで同作の連載が始まったのは2024年6月の事であり、記事執筆時点でようやく連載1年。マンガ大賞の発表は本年3月のことであり、マンガ大賞発表時点では連載9か月の「ルーキー」だった。マンガ大賞受賞作は映画やアニメになるなど、影響力の大きい賞として注目されており『ありす、宇宙(どこ)までも』は今後のメディアミックス展開が予想される。同作は先ごろ(7月7日)に投票が締め切られた「次にくるマンガ大賞2025」にもノミネートされており、こちらでも受賞の期待がかかる。「次にくるマンガ大賞2025」の結果発表は2025年9月18日に予定されているとのことだ。
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『ありす、宇宙までも』は主人公の朝日田ありすが宇宙飛行士になって記者会見に臨んでいる場面から始まる。その後、物語はありすの小学生時代までさかのぼって開始される。ありすは容姿端麗な少女だが言語発達に問題を抱えている。彼女が同級生の少年・犬星類と出会い宇宙飛行士を志すところから物語が動き出す。今後、彼女が宇宙飛行士になる道には様々な困難が待っていることが容易に想像されるが、「目標を達成するまでの山あり谷あり」を表現するのに宇宙飛行士ほど適切な職業はそうないだろう。宇宙開発は半世紀以上の歴史があるが、歴代の宇宙飛行士は全世界でおよそ600人にすぎず、日本人に限定するとわずかに12人である(2024年時点のデータ)。世界人口がおよそ80億人であることから単純計算すると、宇宙飛行士になれる確率は0.000000075%ということになる。
では、具体的に宇宙飛行士になるにはどのような資質・能力が必要で、どのぐらい難しいのだろうか? 今回は『ありす、宇宙までも』の劇中描写を交えつつ「宇宙飛行士になる難易度」を考察していく。
※参考のため『ありす、宇宙までも』以外に下記書籍を参考していることをはじめにお断りしておく。ここに名前を挙げていない書籍は必要に応じて文中で紹介する。
リック・エドワーズ (著), マイケル・ブルックス (著), 藤崎 百合 (翻訳)『すごく科学的: SF映画で最新科学がわかる本』(草思社)
フランセス・アッシュクロフト (著),矢羽野 薫 (翻訳)『人間はどこまで耐えられるのか』(河出書房新社)
柳川 孝二 (著)『宇宙飛行士という仕事 - 選抜試験からミッションの全容まで』(中央公論新社)
井上 榛香 (著)『宇宙を編む: はやぶさに憧れた高校生、宇宙ライターになる』(小学館)
人類は地球で誕生した。そのため、本来であれば地球上でしか生存することができない。宇宙船も宇宙服も人類が宇宙空間で生存できるよう、その内部で地球内の環境を再現するために作られたものである。もし船外活動中に宇宙服が破損したりしたら大惨事である。確実に生命の危機だろう。宇宙への航行はリスクが極めて高いためNASA(アメリカ航空宇宙局)宇宙飛行士はミッション前に必ず遺書を書く。
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では具体的に宇宙に行くのはどのぐらい危険なのだろうか?『人間はどこまで耐えられるのか』と『すごく科学的: SF映画で最新科学がわかる本』から宇宙航行で発生するリスクについて掻い摘んで紹介する。
・重力加速度(G)による失神リスク
人間が生身で宇宙に飛び出すことはできない。地球の重力を振り切らないと宇宙には出られないが、それには人力では到底発生させられないエネルギーが必要だからだ。ロケットに乗ることでそれが可能になるが、ロケットは一般的に宇宙空間と呼ばれるカーマン・ライン(高度100km)到達時点で、約6078km/hまで加速する。ジェット旅客機の巡航速度はおおむね900km/h前後、乗りこなすのに肉体的な資質を要するF-15戦闘機ですら約2725km/hである。こんな高速で飛び出すとロケットに搭乗する人間もただでは済まない。強烈な重力加速度(G)に晒されるからだ。強力なGに晒されると血液が足の方へ移動し、脳に十分な血流が保てなくなる。そうなると搭乗者は失神し、機体がコントロールを失う可能性がある。
そうならないために戦闘機乗りはGがかかった状態でも呼吸を続け体に力を入れる訓練をする。NASAのマーキュリー計画(アメリカ合衆国初の有人宇宙飛行計画)で採用された宇宙飛行士たちは軍のパイロットだったが、その理由はロケットに乗るのと戦闘機に乗るのには同様の資質が求められるからだ。このレガシーな宇宙開発計画の過程は映画化もされたトム・ウルフの名作ノンフィクション『ザ・ライト・スタッフ: 七人の宇宙飛行士』(中央公論新社)に描かれている。マーキュリー計画は半世紀以上昔のものだが、このような事情から現代でも宇宙飛行士は元パイロットが多い。
・宇宙風邪
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宇宙は無重力状態であるため、体液の循環に影響が出る。地球では重力が働いているため体液や水分は下半身に溜まるが心臓は重力に逆らって血液を送り出す。しかし、無重力空間では体液が上半身に偏る。体液が上半身に溜まると顔がむくみ、眼球が外に飛び出るように感じ、鼻詰まりが起きて嗅覚と味覚が鈍くなる。重症の風邪のような感覚になることからこの現象は「宇宙風邪」と呼ばれる。
・宇宙酔い
宇宙に出ると体液の移動により平衡感覚をつかさどる内耳が影響をうけて吐き気を感じる。筋肉の動きが協調しなくなり、正確にものをつかめなくなる。このような現象を「宇宙酔い」と言う。宇宙酔いの正確な原因はわかっていないが体の姿勢について脳が矛盾する指令を出すためだと考えられている。気持ち悪くなって横になるのは逆効果である。宇宙には縦横が存在しないので体が混乱するためだ。ただ、大抵の宇宙飛行士は低重力の環境に適用し2、3日で回復するとのことだ。
・骨と筋力の低下
低重力の状態では激しく動く必要がなくなるため筋力が低下する。低重力状態では骨にかかる圧力も小さくなるため骨芽細胞が活性化せず、骨密度が低下する。何も対策をしないと10か月の宇宙滞在で30歳から75歳までを地上で過ごしたのと同程度の骨密度の低下が起きる。その対策として宇宙飛行士は宇宙滞在中1日3〜4時間の運動をする。(ただし運動により骨と筋力の低下を完全に食い止めることができるとは証明されていない)。『2001年宇宙の旅』(1968年)は科学的に正しいハードSFの名作だが、主人公のデヴィッド・ボーマン船長(キア・デュリア)はシャドーボクシングしながらのんびりランニングしていた。柳田理科雄(著)『空想科学映画読本』(扶桑社)によると「もっと真剣に走らないと、体が弱る」とのことだ。
・体臭がきつくなる
宇宙船内で水は希少なため入浴はもちろんシャワーを浴びることも難しい。地球からISS(国際宇宙ステーション)に3トンの水を運ぶのにかかるコストは約60億円である。量も金額も大きすぎてピンとこないだろうが、コップ一杯換算で40万円の運送コストということになる。高価すぎて体を洗うのには到底使えない。
・眠れなくなる
人間の体内時計は明るい昼間と暗い夜間を繰り返す概日リズムに従っている。宇宙には昼夜のサイクルが存在しないため体内時計が狂い、睡眠に影響が出る。
・細胞の奇形化
重力の無い環境では細胞が変形する。特に血液細胞は長期的に見ると正常に成長しなくなって機能を喪失する危険性がある。
・宇宙放射線
宇宙には人体に有害な放射線が飛び交っている。地上では大気圏と地球の磁場がバリアになり、可視光線と電波以外の放射線はほとんど地表に届かないが、宇宙にはバリアがないため有害な放射線を浴びるリスクがある。宇宙の放射線レベルは基本的に低いが、長期にわたって浴びるとDNAが損傷し癌に罹患しやすくなる危険性がある。
・精神的ストレス
人間は高度な知能と複雑な精神を持っている。体の健康も重要だが精神の健康も重要な問題だ。ISSでの生活は繰り返しが多く単調で、同じ保守作業を繰り返さなければならない。JAXA(国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構)有人宇宙環境利用ミッション本部 有人宇宙技術部 部長を務めていた柳川孝二氏は自身の著書『宇宙飛行士という仕事 - 選抜試験からミッションの全容まで』で「閉鎖・隔離環境に起因する孤独・隔絶感」「文化背景の異なる少人数と閉鎖環境に隔離される対人ストレス」「常に危険と隣り合わせのミッションに参加していることの緊張感」「長期滞在時特有のモチベーション低下」をISS長期滞在時における精神的ストレスのリスク要因として挙げている。
ISSには電話ボックスほどの大きさの個室があり、一応プライバシーへの配慮はあるようだがISSが閉鎖空間である以上プライバシーには限度があるだろう。食事のメニューは「歯磨き粉を食べているみたい」と評されていた時代に比べればかなり改善されているがメニューはそんなに多いとは言えない。現在認定されている宇宙日本食は53品目だが、ISSへの滞在は基本6か月である。ある地方自治体が1回の給食に使用する食品数は、おおよそ17品目である。53品目を6か月使いまわしたらおそらく飽きるだろう。(日本の宇宙食はかなり評判がいいらしい。娯楽の乏しい宇宙生活では重要なことなのだろう)。映画『オデッセイ』(2015年)の主人公マーク・ワトニー(マット・デイモン)の食事はほぼジャガイモ一択だったが、火星に一人取り残されてジャガイモばかり食べていたらカロリーも食事の楽しみも相当に制限される。映画の終盤の方でワトニーはゲッソリ痩せていた。ジャガイモは二度と食べたくないことだろう。
『オデッセイ』はフィクションだが、劇中のように仮に火星に人類が行くことが可能になった場合、最低で片道8カ月は宇宙を航行する必要があると試算されている。宇宙船内やISSではアクセスできる娯楽にも限りがある。ISSには個人用のパソコンが用意されており、読書、映画、音楽でリラックスする時間はあるようだがリソースの限られるISSにそれほど多くのコンテンツは持ち込めないだろう。初期の宇宙開発でもこの隔離空間による精神的ストレスの問題は重要視されており、ロシアの伝説的な宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンは「終了期間がわからない状況で無音響室に隔離されて返答の無い一方通行の交信を行う」「時間の経過が不明の状態で睡眠中の点灯や作業中の消灯がなされる」など想像しただけでストレスフルな環境下での訓練が行われたとのことだ。
前述のとおり放射線の被ばくなどの宇宙への航行は身体的なリスクを伴うが、こういった医学的なリスクを『すごく科学的: SF映画で最新科学がわかる本』著者のマイケル・ブルックス氏は「宇宙生活で生じる心理的な困難に比べたらなんでもない」と評している。NASAは実際に火星への移住を想定して複数人を閉鎖空間に長期間置くと何が起こり得るか研究してきたが、その結果は嬉しくなるようなものではなかった。宇宙飛行士には対人問題を起こさないよう知的能力にも人格にも優れミッションを優先する人物が選ばれるが、それでも問題が起きることがある。1973年、スカイラブ宇宙ステーションにいた数名の宇宙飛行士が自分たちは働きすぎだと主張してストライキを行った。1982年には2人の宇宙飛行士が7か月間ほとんど話をしないままサリュート7号に乗船し続けたことがある。「お互いが嫌になった」が理由である。『ありす、宇宙までも』の宇宙飛行士選抜試験ワークショップとマンガ『宇宙兄弟』(講談社)のJAXA採用試験で閉鎖空間で他の候補者と一緒に時間を過ごすというものがあったが、同様のことが現実の宇宙飛行士選抜試験でも実施されている。こういった事情を踏まえると必要な選考過程であることがお判りいただけると思う。
『すごく科学的: SF映画で最新科学がわかる本』に著者のリック・エドワーズ氏が想像を交えて火星へ向かう宇宙船での1日を描いている。以上の内容を踏まえると多少の誇張はあってもかなり簡潔にまとまっていると思っていただけるだろう。
06:00 起床。洗浄力のある布で全身をぬぐう
06:15 朝食。いつもと変わらず、まずい
07:00 宇宙管制センターによる当日用の指示書を読む
08:00 細かい家事(掃除や修理、場合によってはアイロンがけ)
10:00 エクササイズ(筋力低下への無駄な抵抗)
11:00 軽食となにかしらの科学実験(両方ともつまらない)
13:00 昼食(朝食を参照のこと)
14:00 排便。声をたてずにむせび泣く
17:00 エクササイズ、2回目(ジャンプして天井に頭をぶつける)
18:00 夕食(朝食を参照のこと)
19:00 自由時間(地球にいる人とはもう話せないので、優秀なパイロットだった頃の面白秘話を他の宇宙飛行士たちに披露する―何度目かわからないが)
19:10 不思議なことに、他の全員がもう寝るからと早々に引き揚げる。ずっと読みたかった小説を開く
19:20 フェイスブックとツイッター(現・X)をチェック
19:35 窓から外を眺め、地球を探す―何度目かわからないが
20:00 私物のなかに隠しておいた絨毯を取り出して、映画『アラジン』の主題歌「ホール・ニュー・ワールド」を歌う―何度目かわからないが
20:15 就寝。自殺を考える
イギリス人らしいブラックユーモアを含んだ想像だが、実際にこのような単調な生活に8か月耐えられる人間はそういないだろう。宇宙は行くのも過酷、滞在するのも過酷なのだ。そんな危険極まりない環境に旅立つ宇宙飛行士には相応の資質・能力が求められることもご想像いただけるだろう。次項で考察する。
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