【高校野球】春の大阪大会で公立校唯一のベスト8 堺東の快進撃はいかにして起きたのか?

0

2025年07月11日 18:40  webスポルティーバ

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真

堺東高校「公立1位から大阪1位」への挑戦(前編)

 7月5日、京セラドームで高校野球の大阪大会が開幕した。かつては大阪大会ならではの醍醐味だった「ノーシード制」は廃止され、2021年から他府県にならって「シード制」が導入された。今年も春季大会でベスト16に入ったチームが各ブロックに振り分けられ、2回戦からの登場となる(4回戦以降は再抽選)。

 トーナメント表を見ると、シードのなかに公立校は3校。そのうち、大阪桐蔭、履正社、関大北陽、大体大浪商、興国、東大阪大柏原、東海大仰星といった甲子園出場経験がある強豪私立と並び、春季大会で公立校として唯一ベスト8に入ったのが堺東だ。

 その春季大会では、準々決勝で大阪桐蔭に6回コールド(1対15)で敗れ、力の差を痛感させられたが、タイブレークで6点差を逆転した箕面学園戦(5回戦)をはじめ、近大泉州、精華といった中堅私学を次々と破る見事な戦いぶりを見せた。

 レギュラーの平均身長は171センチ、体重は65キロ。飛び抜けて力のある選手がいるわけではなく、「走攻守」の3つのうち、明らかに1つ、もしくは2つ見劣りする選手たちが9つのポジションに就いたにも関わらず、快進撃を続けたのだ。

 白地に紺を基調としたいかにも公立校らしいシンプルなユニフォームに身を包む堺東とは、はたしてどんなチームなのか。

【野球以外の積み重ねが導いたベスト8】

 先述した大阪桐蔭戦の試合後、GOSANDO南港のレフト奥のスペースで監督の鈴木昭広は選手たちを前に声を響かせ、春の戦いを締めていた。

「今日は完敗や。でもな、たまたまでこんな結果(ベスト8)にはならへん。おまえらが毎日積み重ねてきたものがあってこそや。そこは自信持ったらええんとちゃうか」

 無駄な肉のない締まった体つきに、精悍な顔つき。その風貌はまさしく「イケオジ」だ。そんな指揮官の思いのこもった労いの言葉に、坊主頭で背筋を伸ばした選手たちが気持ちの入った返事で応える。

 今の時代、こうした描写ひとつでも神経質にならざるを得ないが、目の前の張り詰めた空気は、熱を感じさせるこの指導者と選手たちが積み重ねてきた、濃密な時間のなかで生まれたものだということは、はっきりと伝わってきた。

 ミーティングが終わったところで、春の勝ち上がりについて鈴木に話を向けると、「野球以外のことを一生懸命やった結果やないですか」と短く返し、こう続けた。

「ベスト8に入ったからといって、特別なことをやったとは思っていません。あいつらは『力がなくてもベスト8に行けた』って、すごく喜んだと思うんですけど、野球でも野球以外でも、やるべきことをちゃんとやっていれば勝負はできるんですよ。特に高校野球はね」

 あらためて近年の堺東の戦績を見ると、大阪桐蔭を相手に終盤まで粘り2対4で惜しくも敗れた試合(2021年春)や、近大附属に1点差で敗れた試合(2023年春)など、印象的な戦いが目に留まる。

 この日は鈴木の言う「野球以外」のことについてじっくり尋ねる時間はなかったが、大会後、堺市の高台にあるグラウンドを訪ね、いまだ多くがナゾに包まれている指揮官とチームに迫った。

【挫折と不完全燃焼の高校時代】

 試合後の厳しい雰囲気とは一変、人懐っこい笑顔で迎えてくれた鈴木は「僕のことなんか誰も知らんでしょう。自分のことを話すこともないですし、生徒たちも僕のことなんか知らんと思いますよ」と笑った。たしかに春を勝ち上がるなかで、他校の関係者に"堺東の監督"について何度か尋ねたことがあったが、曖昧な反応が続いた。そこで不勉強を詫びながらプロフィールから確認させてもらうと、ここで思わぬ発見が続いた。

 1971年、大阪生まれの53歳。少年時代は少々やんちゃな野球小僧で、父に連れられては甲子園へ阪神の応援に通ったという。浪商の付属中学から大体大浪商へ進学。当時、校舎が茨木市から泉北の熊取市へ移転する時期で、「新生・浪商野球部で甲子園へ」という呼びかけに胸を躍らせ、門をくぐった。

 ところが先輩もおらず、すぐに大会に出場できるだろうという思惑は外れた。鈴木の記憶によれば、2年の途中までチームは公式戦に出場することができなかった。茨木にも野球部が残っており、同一校から2チームが出場する形になるため、高野連からの許可が下りなかったのだ。結果、来る日も来る日も、ただひたすら練習に明け暮れる日々が続いた。

「大会の記憶は、ほんとに最後の夏しか残っていないんです。大阪では元木(大介)らが同級生で、上宮が注目されていた年(1989年)ですね。僕らは、その翌年の90年に中村紀洋が活躍して、公立校として夏の甲子園に出た渋谷高校に負けて終わりました(4回戦)。入学当初は同級生が120人いたんですが、どんどん辞めていって、最後は30人。とにかく、練習、練習で......しんどかった記憶しか残ってないですね」

 不完全燃焼だった高校時代を終え、進学した大阪体育大で一気に頭角を現した。2年生からセンターのポジションをつかみ、俊足のスイッチヒッターとして阪神大学リーグでベストナインを4度受賞。自慢の足を生かして盗塁も次々と決めた一方、打撃では当時のリーグ記録となる通算10本塁打をマークした。

 さらに守備では、目を引く強肩も武器となり、4年生の時にはプロ注目の選手として新聞や雑誌で取り上げられる存在になっていたという。

 しかし、本人も望んでいたプロからの指名はなく、社会人野球の名門・三菱自動車川崎(神奈川県)へ進んだ。プロ入りの夢を持ち続けたまま社会人生活をスタートさせたが、3年、4年と時が過ぎるうちに、社会人野球で自分の野球人生をまっとうしようと目標を切り替えることになる。そんな矢先、母が病に倒れ、余命半年の宣告を受けた。人生の大きなターニングポイントとなった。

「野球を始めてから母親にはずっと支えてもらってばかりだったので、最後に恩返しをしたい、そばについていたい、という気持ちになって」

 社会人5年目で現役を引退し、会社も辞めて大阪へ戻った。振り返れば、ここから指導者への道がつながっていったことを思うと、あれは母の導きだったのか......と、のちにそう感じることもあるという。

【33歳で指導者人生がスタート】

 やがて母は亡くなり、そこからはOA機器販売の営業マンとして、幼い子どもが2人いる家族のために働いた。しばらくは野球から離れた生活が続いたが、やがて高校野球の現場に立っていた大学時代の同級生や先輩たちから、少しずつ声がかかり始めた。

「空いている時に手伝ってくれへんか」

 誘いに乗って久しぶりにグラウンドに立つと、"野球の虫"が騒ぎ始めた。「もっと野球がしたい」「もっと子どもたちと高校野球をしたい」。そんな思いは日増しに強くなっていった。

 やがて、2つの道が見えてくるようになった。ひとつは、外部指導員として私立校を中心に売り込む。もうひとつは、新たに教員免許を取得し、公立校を念頭に野球部の指導に関わることだった。

 考え抜いた末、鈴木が選んだのは後者だった。幼い子どもたちを抱えている現実を考えれば、安定した収入が必要だったからだ。たとえ野球の指導ができなくても、教員として安定できる道を選ぶべきだと思った。脱サラして新たな挑戦に踏み出すことができたのは、何よりも、専業主婦として2人の子育てに励んでいた妻が背中を押してくれたおかげだったという。

「嫁さんは、僕が仕事を辞めて、もう一度野球をやりたい、高校野球をやりたいって言った時に、『やったらいいやん』って喜んでくれたんです。普通に考えたら、小さい子どもが2人いて、安定した収入もあるのに、今から先生になるための勉強を始めるなんて、『何を考えてるの?』って思う人が多いはずなんですよ。でも、『勉強してる間は私が働くから、好きなようにやって』って、背中を押してくれた。嫁さんは、僕が野球をやっていた時代を知っているから、野球をしなくなった僕には魅力を感じてなかったんじゃないかって思うこともあるんですけど......それでも、ほんまにありがたかったですね」

 最後は笑いも交えながら語ったが、そこからは教員免許を取得するため、母校の大阪体育大に聴講生として通い、勉強に明け暮れた。それまでの人生は、ずっと野球一色。就職も野球を通じて決まったものだった。

「まったく勉強は得意じゃなかったので、かなり大変は大変でした」と苦笑いを浮かべたが、やがて教員免許を取得し、採用試験にも合格。赴任先は、岸和田市にある府立・久米田高校に決まった。33歳で指導者としての人生がスタートし、やがて野球部の監督を任されることとなった。

【息子はアマ球界のエリートコースを歩む】

 ちなみに、当時幼かった2人の子どもは、すでに成人している。今年、社会人となった長男の話が何気なくつながったところで、思わぬ発見があったので紹介しておきたい。

 父の遺伝子を受け継ぎ、生粋の野球小僧に育った長男は、高校進学時に自ら志願して高知の明徳義塾へ。2年夏にはクリーンアップを任され、甲子園にも出場。新チームではキャプテンとなり、秋の神宮大会では本塁打も放つなど、翌春の選抜での活躍も大いに期待されていた。その選手こそ鈴木大照であることが、話の途中で判明した。

 期待が高まっていた3年春の選抜はコロナ禍で中止となり、夏も代替大会。最後は交流戦として甲子園で1試合だけ戦ったが、父とはまた違った意味で、不完全燃焼の高校時代を送ることになった。

 それでも、野球人生は力強く続いている。大学は東京六大学の名門・法政大へ進み、さらに今春からは社会人野球の強豪・パナソニックへ。アマチュア球界のエリートコースを歩んでいる。

「息子の話も普段することがないので、近い人間以外知らないです。それに息子の野球は甲子園も含めどの大会も生で見てなくて、夜にネットで見るくらい。小・中と息子が行っているチームのグラウンドで教えたこともなかったですね。野球シーズンはいつも生徒たちを見ているから時間がないんですよ」

 母の導き、家族の協力もあり、晴れて野球のある生活に戻った鈴木だったが、指導者人生が思惑どおり順調に進んだわけではなかった。

(文中敬称略)

つづく

    ニュース設定