語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第19回】大久保直弥
(法政二高→法政大→サントリー)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。
連載19回目は、野球やバレーボールを経て、大学からラグビーを始めた「異色のFL」大久保直弥を紹介したい。無尽蔵のフィットネス、体幹の強さ、そして強烈なタックルを武器にサントリー(現・東京サントリーサンゴリアス)で活躍。当時は多くなかったプロ選手となり、さらにはニュージーランドにも挑戦するなど、日本ラグビーの新たな世界を切り開いた先駆者だ。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
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大学からラグビーを始めて日本代表まで上り詰めた選手と言えば、近年では「鉄人LO」大野均が有名だ。しかし、大野より3学年上の先輩が、先にその道を切り拓いている。
大久保直弥だ。
彼はまさに「漢」という文字がピッタリの選手だった。自分より大きな相手にも決して引かず、誰よりも接点でファイトし、試合の最後まで体を張り続けた。
大久保は1975年、神奈川県川崎市に生まれた。実家は京急電鉄・大師橋駅にある豆腐店。元プロ野球選手の井端弘和とは同じ町内の友だちで、小学校時代は一緒に野球をやっていた。地元・法政二高に進学すると、大久保はバレーボールに打ち込むようになる。春高バレーこそ出場できなかったが、インターハイや国体で実績を残す。
ふたりの弟もバレーボール選手で、大久保3兄弟は当時の神奈川バレーボール界で知られた存在だったという。1歳下の次男・茂和は筑波大や堺ブレイザーズでプレーし、引退後は女子日本代表コーチを経て2022年より埼玉上尾メディックスの監督を務めている。
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【ラグビー転向1年で大学デビュー】
弟と違って、長男・直弥は高校でバレーボールに見切りをつけた。当初、進学した法政大では「アメリカンフットボールをやろう」と思っていたという。ところが、高校時代のバレーボール部の監督に強く勧められたこともあり、ラグビーを始めることになった。
「当時は(自分にラグビーが)合っているとは思ってなかったです。ラグビーは素人でしたし、ベンチプレスやウエイトトレーニングもやったことがなかったし......。ただ、スタートがゼロだったから、やればやるほど身についてくるので、面白かった」(東京サンゴリアスHPより)
運動能力が高かった大久保は、ラグビー転向わずか1年間で試合に出られるようになる。早々にレギュラーの座を勝ち取り、大学ラグビーシーンで名を轟かせた。
大学卒業後は社会人の強豪サントリーに入社。そしてラグビーを始めて6年目の1999年、平尾誠二監督(当時)に抜擢されて日本代表初キャップを得た。
ラグビーワールドカップには1999年大会と2003年大会に出場。2度目の大舞台では副キャプテンを任され、主将No.8箕内拓郎、副将WTB大畑大介とともに「1975年生まれトリオ」を組んでチームを引っ張った。
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1999年大会では1勝も挙げることなく帰国したため、2003年大会にかける気持ちは強かった。
「見ているファンが夢を持てるようなゲームを、ひとつでも多く増やしたい。もしワールドカップでジャパンが1勝でも2勝でもしたら、ファンはグラウンドに戻ってくる」
オーストラリア・タウンズビルで行なわれたワールドカップ初戦の相手は、世界屈指の強豪スコットランド。大久保はチームの先頭に立ってタックルを繰り返し、後半20分まで4点差という粘りを見せた。しかし終盤、スコットランドに3トライを許して敗戦となってしまった。
ただ、日本代表の大健闘ぶりは外国人記者の心を揺さぶり、現地メディアは「ブレイブ・ブロッサムズ(勇敢な桜の戦士たち)」と大きく報じられた。それが今の日本代表の愛称となったことはよく知られている。
【日本人ふたり目のNZ州代表に】
大久保のラガーマン人生を振り返るにあたり、当時まだ珍しかったプロ選手となってニュージーランドに挑戦したことも特筆すべきだろう。
日本代表の「レジェンドWTB」坂田好弘がニュージーランドのカンタベリー大学に留学し、地元リーグでトライ王に輝いて日本人初の州代表選手に選ばれたのが1969年。そこから35年経った2004年、大久保はワールドカップ後にサントリーを辞め、退路を断って海を渡った。
大久保は2シーズン、本場ニュージーランドでラグビー生活の日々を送り、その実力が認められてサウスランド州代表に選出。ニュージーランドの州代表に選ばれた日本人ふたり目の選手となり、その後のHO堀江翔太、SH田中史朗らのチャレンジにつながっていった。
2008年、大久保は現役を引退。実家の豆腐店を1年間手伝ったあと、サントリーに指導者として戻り、当時指揮官だったエディー・ジョーンズHCを支えた。そしてジョーンズHCが日本代表の指揮官になると、大久保がサントリーの監督に就任。アタッキングラグビーを引き継いでトップリーグ連覇、日本選手権3連覇を成し遂げるなど、サントリーの一時代を築いた。
その後はサンウルブズや静岡ブルーレヴズのコーチを経て、2023年からU20日本代表監督へ。再びジョーンズHCの右腕となって、将来の日本代表を育てる仕事に邁進している。
「指導者はやっぱり、選手よりタフじゃなくちゃいけない。1パーセントでも選手がよくなる可能性があるなら、コーチはそこに100パーセントの思いをつぎ込まないと成り立たない仕事ですから」
誰よりも熱いハートを持つ「漢タックラー」は、今も心はそのままに熱血指導を続けている。