「子どもだから分からなくていい」は間違いだ――やなせたかしが貫いた美術館のあり方

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2025年07月17日 08:20  ITmedia ビジネスオンライン

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施設のエントランスに掲げられているバルーン(C)やなせたかし (C)やなせたかし/フレーベル館・TMS・NTV

 高知県香美市にある「やなせたかし記念館 アンパンマンミュージアム」(以下、やなせたかし記念館)は、開館から29年がたった今も進化を続けている。その理由は、名誉館長でもあったやなせたかし氏が開館当初から掲げていた理念にある。


【写真6枚】館長・やなせたかしさんの「メッセージ」


 「『現在進行形でいこう』とおっしゃっていました。決められたものを皆さんにお見せするのではなく、さまざまな声を聞きながら、常に進化していくミュージアムで良いと」


 こう振り返るのは、やなせたかし記念アンパンマンミュージアム振興財団で事務局長を務める仙波美由記さんだ。美術館でありながらも権威的な姿勢をとらず、来場者の意見に積極的に耳を傾け、新しい取り組みを次々と導入する。これが同館の大きな特徴だ。


 「やなせ館長が亡くなってからも、私たちはそれを強く意識しています。変化を恐れず、『こうしてほしい』『こういうものを見たい』という皆さまの声をできる限り取り入れた結果、マイナーチェンジを含め、この29年の間で当館の展示はかなり変わっています」


 ハード面では、この29年間に授乳室を増設したり、エントランスのバルーンや立体ジオラマの増設、撮影スポットなどを新設したりした。作品に関してとりわけ興味深いのは、展示位置を定期的に変更している点である。


 「子どもたちの目線で見ていただきたいので、比較的低めに作品をかけていますが、同時に、安全を最優先しなければいけません。低すぎると、ちょうど目の当たりに突起物があったり、額縁の角に当たってしまったりします。そのため、夏休みなどで幼い子どもたちの来場が増える時期には、あえて作品を高く展示することもあります」


 一般的な美術館であれば「この絵はこの角度で見てほしい」という作品性を重視するところだが、やなせたかし記念館の姿勢は異なる。来場者に寄り添う姿勢こそが、同館の経営イズムなのだろう。


●作品の詳細な解説をしないワケ


 同館が運営方針として大切にしているのは、あらゆる層が来場しやすい間口の広さだ。


 「これはやなせ館長のご意向ですが、私たちも『アンパンマンミュージアムはローブロー(サブカルチャー的な要素を持つ、伝統的な美術のルールに縛られない表現方法を指す)で良い』と考えています。特に昔は、美術館や博物館とは少しおしゃれをしたり、かしこまったりして行くところでした。でも、やなせ館長は大衆の日常にある芸術を作りたいと考えていた方です。皆さんが日常的に見る絵本や雑誌は大金をかけて買うものではないですよね」


 そのため、アンパンマンミュージアムは幅広い層の来場者を歓迎している。


 「ここにはさまざまな方が来場されます。美術館に日常的に訪れる習慣があるようなご家族だけではなく、アニメのアンパンマンが好きだから行ってみようという方々も多いです。美術館ではありますが、大衆的な興味・関心で来ていただいて、もちろん構いません。むしろ、そうした方々が入りづらいような施設にするのは違うと思っています。誰もが楽しんでもらえる場所にしたいのです」


 この方針により、同館では意図的に作品の詳細な解説を控えている。その理由について、仙波さんはこう続ける。


 「多くの美術館や博物館には、最初に作者の年表が掲げられています。そして、各作品には読み物のような長さの文章がついており、この作品がいかにすごいのかを主張しているようなものもあります。美術館に慣れていらっしゃる方であれば良いのですが、興味がない方は恐らくそこで引いてしまいます。文字をたくさん読まないといけず、難しいから外に出たくなってしまう」


 そうならないために、同館では解説などを極力避け、来場者の心理的ハードルを下げている。「最初は、『どういう意図の作品なのかは分からないけど、この絵はすごく美しいし、かわいいからポストカードを買って帰ろう』と感じていただけるだけで良いと思っています」と仙波さんは強調する。


●「子どもだから分からなくても良い」は違う


 ただ、間口を広げるだけでは終わらない。やなせたかし記念館の巧妙さは、来場者の関心度に応じて段階的に深い体験を提供する仕組みにある。


 「より関心を持った人が、ハイブローな作品を見られるような工夫をしています。例えば、タブローの作品を『やっぱりすごいな』『きれいだな』と思ってくださったのであれば、詩とメルヘン絵本館にご案内できます。もちろん、アンパンマンミュージアムの中でも多くの絵を展示しています。子どもだましのものではなく、本物の素晴らしさ、芸術性のあるものをきちんと見せたいという思いがあるからです」


 この段階的なアプローチは子どもに対しても同様だ。階段の壁など、子どもの目線の高さにさまざまなメッセージが配置されている。


 「『子どもだから分からなくても問題ないよね』というのは違うと、やなせ館長はよくおっしゃっていました。現に、子どもたちの行動を見ていると、いろいろな関心を持っていて、それぞれに個性があることが分かります」


 実際の来場者の様子を観察した仙波さんの言葉は具体的だ。


 「お母さまが、『この作品は難しいからもう出よう』と言っても、子どもは1つの絵の前で立ち止まっていたり、絵本を読み続けていたりします。もしかすると大人は足元のさまざまな展示物に気付かず歩かれているのかもしれませんが、子どもにはそれが届いているなと感じることがあります」


●1つの仕事に対し、3倍で返してくれた


 やなせたかし記念館の運営の思想を理解するには、やなせ氏の人間性と仕事観を知ることが重要だ。仙波さんは約10年間にわたってやなせ氏と仕事を共にした経験を持つ。


 「スタッフと館長という関係で接する部分が多かったので、やなせ館長プライベートがどうだったのかは正直分かりません。ただ、お会いした時はすでに80代でしたが、仕事に取り組む姿勢が素晴らしいと感じたのを覚えています」


 やなせ氏は長年にわたって世間に認められない不遇の時代を過ごした経験から、仕事に対する意識は並々ならぬものだったという。その仕事ぶりについて、仙波さんは具体的なエピソードを交えて語る。


 「仕事が来た時の返答の速さに加えて、1つの仕事に対して3倍で返す、つまり複数のパターンを納品することで先方に選択肢を与えていました。その姿勢がすごいと感じました」


 例えば、新たな展覧会を開くため館長の挨拶文がほしいと依頼したところ、その日の夕方には原稿が届き、スタッフが準備する時間を確保してくれることもよくありました。


 「本当に仕事の早い方で、こちらから催促をしたことは一度もありません。プロとして第一線で、しかも締め切りがある仕事を何十年もしていた方のため、それによって信頼を勝ち得て、最晩年の成功にもつながったのだろうと実感しました」


 一方で、人柄については「本当に気さくな館長で、私たちとお話しする時にこちらを緊張させるようなことはありませんでした」と仙波さんは目を細める。


 やなせ氏は流行にも敏感だったようで、新しいファッションを取り入れたり、iPadやロボット掃除機なども真っ先に試していたりしたそうだ。これは単なる好奇心ではなく、職業意識に基づくものだったと仙波さんは分析する。


 「やなせ館長の場合、注文を受けて作品を書く作家です。いわゆるファインアートの、自分の思いだけを芸術作品として見せる作家ではないので、周囲がどのような反応があるのかという視点を常に持っていたのではないかと感じます。もちろん、ご自身がファッションなどをお好きだったこともありますが、TPOに応じて服装を変え、お客さまが喜んでくださっているのか、その反応を見ることなどに興味があったと思います」


●好きなものを一緒に分かち合える楽しさ


 こうした姿勢は、やなせたかし記念館の運営組織の意思決定プロセスにも深く根ざしている。


 「他の施設との違いは、『やなせたかしの記念館ならばどうすべきか』という視点を常に持っていることです。皆さんが抱いているやなせたかしのイメージや、アンパンマンのイメージを壊してはいけません。その意識は強くあります」


 この考え方は、仙波さん個人にも大きな影響を与えている。


 「私は県外のギャラリーからの転職で、この美術館にたどり着きました。アーティストは個性的な方が多いですが、本当にありがたいのは、やなせ館長が伝えているメッセージ、例えば、献身や愛、自己犠牲といったものに対して、共感できないことが1つもないことです」


 これは来場者とのコミュニケーションにも役立っている。


 「記念館にいらっしゃる方は本当に多様ですが、やなせたかしの作品が好きであるという共通点があります。私たちも直接お客さまと接する際、例えば、アンパンマンが好きだったり、やなせ館長の絵本が好きだったりということで通じ合えますし、単に美術館として作品を展示したり、作者のメッセージを伝えたりする以上の広がりが生まれます。お客さまとの距離は本当に近いですね。もちろん運営面などで、厳しいお声が届くこともあります。距離が近いため受け止めるのが辛いこともありますが、その一方で、好きなものを同じ立場で一緒に分かち合える楽しさがあるのが、他の美術館とは大きく違う点だと思います」


 やなせたかし記念館は来年で開館30年だが、どういった存在であり続けたいと考えているのだろうか。


 「これから先、記念館がもっと地域に愛され、誇りに感じてもらえるものになるとうれしいです。地元の方々が、自分たちの街にはこんな素敵な施設があるのだと認識し、やなせ館長をより身近に感じてくれることを願っています」


 仙波さんの言葉には、単なる観光施設にとどまらず、地域の文化的な拠り所となることへの強い願いが込められていた。


著者プロフィール


伏見学(ふしみ まなぶ)


フリーランス記者。1979年生まれ。神奈川県出身。専門テーマは「地方創生」「働き方/生き方」。慶應義塾大学環境情報学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修了。ニュースサイト「ITmedia」を経て、社会課題解決メディア「Renews」の立ち上げに参画。



このニュースに関するつぶやき

  • どこのミュージアムも似たようなことしてるやん、それよりアンパンマンの食品廃棄率高すぎやろ!汚れたり濡れたりするとほぼ100バー捨ててる時あるよね?
    • イイネ!1
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