フィギュアスケート男子の冬季オリンピック(五輪)2連覇王者、羽生結弦さん(30)が19日、プロ転向「3周年」を迎えた。
2022年の今日、競技会からの卒業と、孤高の挑戦を表明。この1年は、前例のない単独出演のアイスショー第3弾「Echoes of Life(エコーズ・オブ・ライフ)」や、シンガー・ソングライター米津玄師(34)とのコラボレーションなどで躍動の幅を広げた。昨年12月7日「30歳の誕生日」に続き、仙台市内で日刊スポーツの単独インタビューに応じ、プロアスリート生活3年間の進化、到達した「零から一へ」の新境地について語った。(以後、敬称略)【取材・構成=木下淳】
◇ ◇ ◇
プロ3年目も滑り抜いた羽生は、色紙に「零から一へ」とペンを走らせた。アジア初の五輪フィギュア2連覇を遂げた男が30代に突入し、短い選手寿命に逆行する進化を示しても、ようやく「一」なのだという。
「基礎を見つめ直した1年でした。ジャンプはもちろん、スケーティングや体の使い方に理論を取り入れて『何も分かっていなかったんだ』と思わされて。ただ身体能力で跳ぶジャンプと、理論を頭と体に入れた状態で、それまでの感覚とも合わせて跳ぶものと、全く違いました。まだまだ使いこなせている、とは言えないけど道筋が立った。零から一になれた感覚です」
|
|
2年目、単独ショー第2弾「リプレイ」(23年11月〜24年4月)の頃は、たった1人で滑り切るため「筋トレ重視」だったという。今は、体の使い方、各部位の「分離」を意識し「肩だけ、肩甲骨だけ、股関節だけを動かしたり。ダンスの基礎である『アイソレーション(首、肩、腰などを独立させて動かす技術)』も応用しつつ、運動理論を研ぎ澄ませている最中」だ。
転身3年目は、初めて原作“小説”を書き下ろし、仮想世界の主人公Novaを自ら演じた「エコーズ・オブ・ライフ」(24年12月〜25年2月、全3都市7公演)や、野村萬斎と代名詞の「SEIMEI」で初共演した「ノッテ・ステラータ」など挑戦を加速した。
1年目の初演「プロローグ」(22年11〜12月)は90分間だった公演時間が、最新の「エコーズ」は、ほぼ倍の170分間。一般的なショーでは十数人が出番をつなぐ中、独りで、短編を含め全19曲を舞い切った。
その初日、昨年12月7日は30歳のバースデー当日だった。「生まれてきて良かった〜!」と感謝した。
「4歳で始めてから26年間。フィギュアスケートって選手寿命、めちゃくちゃ短いじゃないですか。ある意味、生き急がなければいけなかった競技だと思っていて。人間なら80や90(歳)までのスパンで考える人生観を、自分は(最後の五輪=22年北京大会を迎えた)27歳までの縮図で考えてきたので、競技を『生まれてから死ぬまで』と置き換えていたので、余計に濃かったのかなと思いますね」
|
|
前人未到だった4回転半に挑み、公式記録に世界初の「4A」を刻んだ。それでも、栄華を極めた競技者時代を「零」と過去にできる今は、こう振り返れる。
「正直、スケーターの成長としては23(歳)ぐらいで止まってしまうし、もう27までいったら落ち気味というか。跳べていた4回転も、だんだん跳べなくなっていく時期…みたいな感じで自分も北京五輪を迎えていました。でも、あれから3年が経過して『まだまだ全然、こんなにも学べていて、変わることができているんだ』と成長を実感する日々。『第2の人生が始まった』感覚ではいますね」
◆羽生結弦(はにゅう・ゆづる)1994年(平6)12月7日、仙台市泉区生まれ。4歳で氷へ。2010年に15歳でシニア転向。16年に世界初の4回転ループ成功。SP、フリー、合計の世界歴代最高点を通算19度も樹立。全日本選手権の優勝は6回。新型コロナ禍でカナダ・トロントから帰国した後、地元の仙台で技を磨く。宮城・東北高−早大人間科学部(通信教育課程)。22年7月19日に「決意表明」の会見を開いてプロ転向を表明。翌23年2月にスケーター史上初となる東京ドーム単独公演を実現。172センチ。血液型B。
|
|
|
|
Copyright(C) 2025 Nikkan Sports News. 記事・写真の無断転載を禁じます。
掲載情報の著作権は提供元企業に帰属します。