選手として最高潮の時期に日本代表に呼ばれなかった名良橋晃「トルシエのことは嫌い。今も、です」

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2025年07月20日 07:10  webスポルティーバ

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私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第29回
自らの信念を貫いた攻撃的サイドバックの数奇なサッカー人生(3)

 日本代表が初めてW杯に挑んだフランス大会。グループリーグ初戦のアルゼンチン戦と2戦目のクロアチア戦を戦い終え、名良橋晃はあらためて痛感させられたことがあったという。それは、W杯は今まで経験してきたどの大会とも異なり、極めてシビアな大会、ということだった。

「僕が小さい頃に抱いていたW杯のイメージって、いろいろな国の人たちがサッカーを見にスタジアムにやって来る世界的な祭典、みたいな感じでした。でも、自分が経験したW杯は、そんな甘いもんじゃなかった。どのチームも勝つために真剣だし、背負っているものも違った。サッカーの厳しさ、世界で勝つ難しさがW杯にはあるな、と思いました」

 グループリーグ最終戦の相手は、ジャマイカだった。ともに連敗を喫して、グループリーグ敗退は決まっていたが、W杯初出場同士の対戦でどちらが勝つのか。各々の国では、W杯初勝利への注目が集まっていた。

「2連敗して、このまま終わるわけにはいかない。岡田(武史)さんは(戦前に)ジャマイカ戦での勝ち点3は計算していましたし、僕らも初勝利を挙げて勝ち点3を取る気持ちでいました。サポーターからも、勝てるとすればジャマイカ戦で『1点取って勝ってこいよ』といった声が大きかった。

 W杯での初勝利を4年後の日韓大会につなげたい、という思いもあったので、この試合は絶対に勝たないといけない――そんな意識でいました」

 序盤から日本は攻勢に出た。名良橋もこれまでの2試合よりも高い位置を取り、積極的に仕掛けていった。「負けられない」という気持ちが、名良橋の攻撃へのマインドを刺激していた。

 だが、勝利に向けて気負いを見せる日本を手玉に取るように、ジャマイカが効率よく得点を重ねていく。前半39分、後半9分と、ジャマイカの中心選手であるセオドア・ウィットモアがゴールを決めた。

「みんな、気持ちが入ってプレーしているなか、ポンポンと2点を取られてしまって......。W杯に出てくる国は、やっぱり強いなと思いましたね。(2点リードされたあと)ゴンさん(中山雅史)がゴールを決めて1点返しましたけど、もう1点がなかなか取れない......。(試合中)歯痒さをずっと感じていました」

 日本は結局、ジャマイカに1−2で敗れてグループリーグ3戦全敗。初めてのW杯での戦いが終わった。

「これが、現状の自分たちの力なんだと思い知らされました。同時に、あれだけ苦しんだ最終予選でようやく手にしたW杯出場なのに、あっという間に終わってしまった悲しさ、悔しさもありました。今振り返っても、1プレー、1プレー、後悔することが多いです。

 あの舞台に立てたのは、自分たちだけの力ではなく、多くの人の支えがあってのもの。その人たちのためにも、3試合もっと全力でやらなきゃいけなかった。遅いよって思われるかもしれないけど、今もすごくそう思っています」

 結果はともなわなかったが、得るものが多かったW杯だった。名良橋は攻撃力を含めて、さらに個の質を高めていかないと2002年日韓W杯の舞台には立てない、という自覚を持って鹿島アントラーズ戻った。

 そして2000年、アントラーズはリーグ戦、ナビスコ杯(現ルヴァン杯)、天皇杯の三冠を達成。名良橋もプレーヤーとしての自信を深めていた。しかし、フランスW杯以降、代表から声がかかることはなかった。

 日本代表は、指揮官にフィリップ・トルシエが就任。ドラスティックにチーム編成を変えていた。

「この頃(の自分)は、コンディションも、パフォーマンスもよくて、選手としては一番いい時期でした。でも、代表には呼ばれず、本当に悔しかったですね。

 ウイングバックには明神(智和)くんとか、シゲちゃん(望月重良)とか、(本来は)ボランチの選手が入っていたので、(監督が)そういう役割を求めているのはわかっていたんです。でも、攻撃的なプレーが自分らしさだと思っていたので、それを変えるのは嫌だった。

 めちゃくちゃ葛藤はあったんですけど、それがアントラーズのスタイルでもあったので、自分を変えてまで、というのは違うなと。自分のプレーを最大限出して呼ばれないなら、しょうがないと思っていました」

 トルシエ率いる日本代表は、1999年のワールドユース選手権(現U−20W杯)や2000年のシドニー五輪で活躍した若い選手たちが中心となっていった。その一方で名良橋は、代表に招集されない悔しさがモチベーションにもなり、アントラーズではいいプレーを見せ続けていた。それゆえ、名良橋は「最後に選ばれるかもしれない」とわずかな可能性に賭けていた。

 だが、2002年日韓W杯の日本代表メンバー発表でも、彼の名前が呼ばれることはなかった。

「自分が一番いい時期だっただけに『チャンスをもらえれば......』と思っていたけど、一度もなかった。僕はトルシエのことが嫌いでしたし、今もそうです。今後も、僕がトルシエを好きになることは一生ないでしょう」

 2002年日韓W杯が終わると、日本代表監督にはジーコが就任。日韓W杯で活躍した選手以外のベテランも招集され、名良橋も久しぶりに代表へ復帰した。

「ジーコさんになって、イチからチーム作りをするなかで呼ばれたので、何をすべきか、というのは明確でした。アントラーズの選手として、他の選手にジーコさんのサッカーを伝える、ということです。

(自分は当時)31歳で、代表メンバーのなかでは年齢も上のほうだったので、4年後のドイツW杯のことまでは考えられなかったですけど、代表に呼ばれている間は、自分の仕事を全うしたいと思っていました」

 名良橋は、秋田豊らとともにジーコジャパンのベース作りに貢献。2003年6月にはコンフェデレーションズ杯を目前にして、キリン杯でアルゼンチンとパラグアイと対戦することになった。

 フランスW杯で対戦したときとは異なり、アルゼンチンは最初からエンジン全開で攻めてきた。ハビエル・サネッティ、パブロ・アイマール、ハビエル・サビオラら欧州のクラブでプレーするタレントたちが仕掛けてくる猛攻に、日本は防戦一方となって1―4で敗れた。

 すると、3日後のパラグアイ戦は最終ラインが総入れ替えとなり、名良橋はベンチで戦況を見つめていた。

「(アルゼンチン戦の)4失点は最終ラインの責任だ、と見られるのは当然のこと。だから、パラグアイ戦はテスト的な意味で最終ラインを替えたんだと思います。

 そのパラグアイ戦は、0−0の引き分けでした。でも、内容は悪くなかった。

 その後、コンフェデ杯が始まって、初戦のニュージーランド戦ではもう1回、(当初のメンバーで)やらせてもらえると思っていたんですが、元には戻らなかった。この時、最終ラインは(パラグアイ戦のメンバーで)もう代えないんだなって思いましたね。

 悔しさは当然ありましたけど、ジーコさんが選んだメンバーなのでリスペクトして、(自分は)アントラーズで結果を出していこう、と割り切りました」

 以降、日本代表の右サイドバックは加地亮や駒野友一らが頭角を現わしていく。

「加地くんをはじめ、いいサイドバックが出てきたし、(自分も)34歳という年齢でもあり、潮時とまではいかないですけど、代表では(後進に)バトンを渡す時期なのかなと思っていました」

 しかし当時、名良橋が最も衝撃を受けた存在は、2006年のW杯イヤーにアントラーズ入りした内田篤人だった。内田は入団早々、指揮官のパウロ・アウトゥオリから高い評価を受け、クラブ史上初となる高卒ルーキーでの開幕スタメンを果たした。

「(内田については)正直、すごい選手が入ってきたなぁと思いました。自分はまだレギュラーで、という気持ちでいたんですけど、篤人が開幕戦でスタメン出場。物怖じすることもなく、堂々とプレーしていた。かわいい後輩だし、お互いに刺激し合いながら(アントラーズの)右サイドをふたりで強くしていければと思っていましたが、本当に怖い存在で、強烈なライバルでした」

 その年、内田はアントラーズの右サイドバックのレギュラーに定着。名良橋はリーグ戦の出場が3試合にとどまった。同シーズン終了と同時に、名良橋はアントラーズから契約を更新しない通知がなされた。

 名良橋はジョルジーニョから受け継いだ背番号2を内田に託した。

「篤人には可能性を感じていたし、アントラーズの右サイドバックの2番を背負ってほしかった。その後もアントラーズの主力としてプレーし、海外へ移籍。(ドイツの)シャルケで活躍するなど、世界に羽ばたいてくれた。それは、うれしかったですね。(あとを託した)オジさんの自慢でした(笑)」

 2007年、名良橋は湘南ベルマーレに移籍したが、自分の思うようなプレーができず、契約は半年で終わった。そして翌2008年2月、現役引退を発表した。

「自分の持ち味は攻撃的なプレー。そのプレーを貫くことでサッカー選手として成長させてもらったので、そこは絶対に外せない。それができないならやめたほうがいいと思ったので、スパっと引退を決めました」

 アスリートとして、頑なまでに自らを貫くという哲学。それを貫き通すとなれば、飛び抜けた能力やプレーの質がないと難しい。名良橋が何歳になっても攻撃力を磨き続けたのは、そのためだ。

 だからこそ彼の存在は、日本を代表する超攻撃的サイドバック――その象徴のひとりとして、今なお語り継がれている。

 名良橋は現在、解説者や都内中学校のサッカー部のコーチをしている。多様性を持ちながらも腹をくくった個性を重要視。指導する中学生のなかから、日本はもちろん、世界へ通じる選手を育成していきたと考えている。

 現役だった頃の自分のように――。

(おわり/文中敬称略)

名良橋 晃(ならはし・あきら)
1971年11月26日生まれ。千葉県出身。高校卒業後、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の前身となるJSLのフジタ入り。1994年にJリーグ昇格後も、チームの主軸として活躍。日本代表にも招集される。その後、日本代表への定着を目指して、1997年に鹿島アントラーズに移籍。1998年フランスW杯出場を果たす。鹿島でも攻撃的なサイドバックとして奮闘し、「常勝軍団」の一員として活躍した。2007年、古巣の湘南ベルマーレに移籍後、2008年2月に現役引退。国際Aマッチ出場38試合。現在はサッカー解説者、指導者として奔走している。

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