
ロベルト・クレメンテのDNA〜受け継がれる魂 (全10回/第9回)
ロベルト・クレメンテとジャッキー・ロビンソン──ふたりの偉大な野球選手が切り拓いた道は、野球界を超えて、社会の価値観そのものを揺るがす力を持っていた。そんな両英雄の遺したものは何だったのか。中日ドラゴンズで通訳を務める加藤潤氏が、多くの人の証言をもとに綴った。
【静のロビンソン、動のクレメンテ】
「我々ラティーノにとってのロベルト・クレメンテは、アフリカ系アメリカ人にとってのジャッキー・ロビンソンのような存在だ」
そう語ったのは、ニカラグア出身のメジャーリーガーで唯一の200勝投手であるデニス・マルティネスである。
ニカラグア野球連盟会長のネメシオ・ポラス氏にこの言葉をどう解釈するのかを問うたところ、気のせいか少し怪訝そうな顔をしたように思えた。クレメンテはロビンソンに比べて、より能動的な存在と捉えられるからなのだろうか。そこで次のように、私の考えを伝えた。
|
|
「ロビンソンは静の人、クレメンテは動の人では。そしてクレメンテが能動的になれたのは、ロビンソンの世代が忍耐の時を経たからではないか」
こう話したのには、以下の言葉が脳裏にあったからだ。
「それぞれの世代には、その時々の扉を開ける責任がある」
ポラス氏にインタビューを行なうほぼ1年前、アフリカのタンザニアでジャッキー・ロビンソンの次男、デービッド氏に話を聞いた。この連載の第7回で小笠原慎之介の野球バッグをタンザニア野球・ソフトボール連盟に寄贈したことに触れたが、同国を訪問した一番の目的は、彼に話を聞くことだった。その際、デービッド氏が発したのがこの言葉だった。
事実、ジャッキー・ロビンソンが人種の壁を打ち破ってMLBデビューを果たす前は、褐色の肌を持つラティーノたちは、ニグロリーグをおもな活躍の場としていた。そしてロビンソンのデビューから2年後の1949年、アフロ・ラティーノとして初めて、キューバ出身のミニー・ミニョソがクリーブランド・インディアンズ(現クリーブランド・ガーディアンズ)でメジャーデビューを果たした。
|
|
デービッド氏によれば、父のジャッキーはただ忍耐の人ではなかったという。もともとは血気盛んな性格だったが、当時の社会状況のなかでは、耐えざるを得なかった。理不尽な仕打ちを受けても、「やり返さない勇気」を持たなければならなかった。
ロビンソンとクレメンテ──どちらが能動的なアクションを起こしたか。その問いに答えるには、彼らが生きた時代背景の違いを無視して、単純に同列で語ることはできない。ふたりとも、それぞれの時代において「開けるべき扉」を開けたのだ。方法は異なっていても、彼らは社会に大きなインパクトを与えた存在であり、野球の歴史のなかでも傑出している。
【やり返さない勇気を持て】
余談だが、1947年にロビンソンと契約した当時のブルックリン・ドジャースGM、ブランチ・リッキーは、「やり返さない勇気を持て」との金言を彼に授けたことで知られている。そのリッキーは、1955年にはピッツバーグ・パイレーツのGMとしてロベルト・クレメンテをチームに迎え入れている。時代の扉を開けようと、もがいていたふたりの背中を力強く押したリッキーの功績も忘れてはならない。
この説明に、ポラス氏も納得してくれたように思えた。
「多くの人が怒り、喧嘩して時を過ごしている。そんな世の中だからこそ、いま一度、彼らの行ないを思い返すべき時なのかもしれない」
|
|
ロビンソンは、怒りをぶつけて争うことさえ許されなかった。一方、クレメンテは争いに時間を割くくらいなら、その時間を他者のために使おうとした。
しかし、クレメンテも怒っていた。激怒と言ってもいい。人生の最期に抱いた感情が「怒り」だったことが、少し悲しくもある。ただ、彼の怒りは人に向けられたものではなかった。ひとりの力ではどうすることもできないニカラグアの政治体制だった。彼の怒りの源泉は、一個の人間に宿る正義感だ。
クレメンテは地震発生直後に救援物資を送るも、それらは被災者の手元に届くことはなかった。物資はニカラグア大統領直下の国家警備隊によって押収され、その事実にクレメンテは激しく憤った。
これはクレメンテの送った物資に限らず、他国からの支援物資も国家警備隊が横領していたとの証言が数多ある。1972年当時のニカラグアは、アメリカの反共政策の恩恵を受けた大統領一族であるソモサファミリーの圧政に苦しんでいた。憤慨したクレメンテは、自らの手で直接被災者に物資を届けようと、制止する妻・ベラを振り切って飛行機へと乗り込んだ。そして悲劇は起こった。
【クレメンテの怒りの矛先】
クレメンテは、ただ純粋にニカラグアの民衆を救いたい。しかし、その人々は国内で政治的な弾圧を受けている。そしてクレメンテの母国・アメリカは、その政治体制を支援している。彼の怒りは、被災者支援を妨げるニカラグア政府だけでなく、その体制を支え続けたアメリカ政府にも向けられていたに違いない。
国家と個人を分けて考える。かつては当たり前のように受け入れられていたこのフレーズが、いまや当たり前ではない世の中になりつつあるのではないか。多くの国家が、ますます独善的に振る舞い始めているように感じるのは気のせいか。国が「◯◯ファースト」と大声で叫び、恥じらいのない排外主義が幅を利かす。安易で危うい「敵か味方か」という二項対立の前で、個人の存在が薄れていく。
「あいつらはオレたちの敵だ。なぜ敵に塩を送るのか。オレたちの利益だけを考えろ」
多くの国が怒って、喧嘩して。もしクレメンテが今も生きていたなら、どんな言葉を発したのだろう。
国同士の付き合いは、「右手で殴り合いながら左手で握手をするようなもの」と言われる。
しかし悲しいことに、現在の国際政治の舞台では、その握手をする左手の力が弱まっている。
このままでは差し伸べるべき手を引っ込め、国家としても福敬登が嘆いた「見て見ぬふりが正解」、あるいは大国が自国ために両の拳で小国を叩きのめすことが是となってしまう。
ちょっと待ってほしい。アメリカでは力のない握手は「デッドフィッシュ」と言われ、相手の信用を失う行為として忌み嫌われているではないか。
そもそも国とは個人の集合体だ。敵の「あいつら」も、味方の「オレたち」も、構成する個人の属性は千差万別だろう。
つづく>>
ロベルト・クレメンテ/1934年8月18日生まれ、プエルトリコ出身。55年にピッツバーグ・パイレーツでメジャーデビューを果たし、以降18年間同球団一筋でプレー。抜群の打撃技術と守備力を誇り、首位打者4回、ゴールドグラブ賞12回を受賞。71年にはワールドシリーズMVPにも輝いた。また社会貢献活動にも力を注ぎ、ラテン系や貧困層の若者への支援に積極的に取り組んだ。72年12月、ニカラグア地震の被災者を支援する物資を届けるため、チャーター機に乗っていたが、同機が墜落し、命を落とした