「今年も第九に挑む」“余命1年半”ステージ4のピアニスト・竿下和美さんが「わくわくしている」最大の理由

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2025年07月20日 11:10  web女性自身

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「歌える子は、歌えない子を囲んで、囲んで!」



この夏、京都府京田辺市の聖愛幼稚園に、ピアニスト・竿下和美さん(50)の朗らかな声が響く。12月末に行われる、子どもからおじいちゃん、おばあちゃんまで3世代でのベートーベンの『交響曲第9番(第九)』の合唱コンサートに向けて、幼稚園のホールを借りて練習の真っ最中だ。



6月1日の初回に集まったのは合唱参加予定者110人のうち大人47人、子ども16人。難しいドイツ語での合唱は初めて参加する子どもたちにはハードルが高いが、今年は子どもの応募が倍に! ドイツ語の歌詞をカタカナで書いた紙を手にして“歓喜の歌”に四苦八苦する子どもたちを囲むのは、昨年、合唱に参加した子どもたち。竿下さん独特の指導法だ。やがてかわいい歌声が聞こえてきた――。



電子ピアノで伴奏しながら目を細めて子どもたちを見つめる竿下さんは、市民による第九合唱コンサートを主催するNPO法人「京田辺音楽家協会」の理事長だ。



今年で4回目を迎える「『全』市民第九合唱団」によるコンサート。“もっと多くの人に音楽の喜びを身近に感じてもらいたい”と’20年に設立されたNPO法人では、コンサートやイベントを行ってきた。年末の第九の合唱コンサートは大切なイベントのひとつ。



平和への祈りが込められた第九。その合唱団に子どもたちが加わるようになったのは今年で2回目だ。竿下さんがこう語る。



「大人だけの第九は全国各地にあると思いますが、どうしても子どもたちに参加してもらいたかったんです。子どもたちに伝えることで、私たちが願う『音楽があふれるまちに』を次の世代へとつないでいけるのです。それに子どもがいると合唱団の雰囲気が変わります。大人だけだと“人と比べて”自分が足を引っ張っているんじゃないかと気にする人が出てしまいますが、子どもが入るとそんな気持ちが皆無に。みんながいろんなものを受け入れられるようになるのです。ドイツ語で歌えるようになるのは大変ですが……」



実行委員長としてピアノを弾かずに裏方に徹する竿下さん、声かけにも熱が入ってくる。



「今歌えなくて当たり前! ゴールは12月です!」



マスク越しでも、彼女の活力とエネルギーに満ちた声が響く。



練習後、声の大きさに驚いたことを記者が伝えると、彼女はこう語って笑みを見せた。



「ふだんから『声が大きい』と言われます。そう言われて気づくんです。『あっ私、肺がんだったんや』と。この前も『竿下さん、声が通るから司会して』と頼まれ毎回司会をしているマルシェでは6時間もマイクを持ちっぱなし。『あの〜、私肺がんなんやけど』と心の中で思いながらやっていました」



そう、彼女は肺がんの一種の「肺腺がん」を患っている。しかもステージ4の末期だ。



’23年2月末に肺腺がんとわかったとき、すでに肺全体に病巣は広がり手術は不可能だった。余命は1年半と告げられた。竿下さん、48歳のときだった。



余命宣告どおりなら、彼女の命が燃え尽きるのは’24年夏ごろだった。それでも、昨年末の第九合唱コンサートは、余命を超えた日に開催を決め、練習を重ねた。そして今年も――。



「死ぬイメージはありますよ。でもそれまではやりたいことを詰め込める期間。この第九のコンサートもそのひとつ。今はわくわくしています。だって宣告された余命の倍になる3年目に突入していますからね。あとどれだけ記録を更新していったろかな、と」



そう晴れやかに語った。





■「音楽があればきっと人生が潤うはず。“音楽のバリアフリー”をテーマに活動を」



大阪府枚方市に’74年に生まれた竿下さんが、ピアノと出合ったのは5歳のときだった。



「母が、ピアノを習うと想像力や感情をつかさどる右脳の発達にいいからと、ご近所のピアノ教室に通うことに。私は鍵盤に触れた瞬間から、感情をメロディで表せるピアノが好きになった。きちんと弾けたときにもらえる“○(マル)”もうれしくて、すごいスピードで課題をこなしました」



近所のピアノ教室の先生に「こんなにピアノが好きやったら」と勧められ、小学生に上がったころ大阪音楽大学付属音楽学園(現付属音楽院)に通った。京都市立堀川高校音楽課程(現京都堀川音楽学校)に進み、大学は京都市立芸術大学音楽学部ピアノ専攻に。大学卒業後は、全国各地で演奏を重ね、ピアニストとして活躍した竿下さんだが、どこかしっくりいかない自分がいたという。



「クラシック音楽は、裕福で品のいいお嬢さんが好きなことをやっているというイメージを多くの人が持っていました。一方、演奏家も音楽以外のことは何もできなくてもいいという風潮がありました。



音楽がなくても人は生きていけるけれど、音楽があればきっと人生が潤うはず。ちょうど『バリアフリー』という言葉が出始めたころで、社会のなかに音楽があることで音楽は社会にもっと愛されるのではと“音楽のバリアフリー”をテーマに活動を始めました」



日本におけるクラシックの世界はコンサートホールに人が集まってきて聴くのが当たり前だった。しかし、それだと音楽に興味のある人しか集まらない。そう考えていた竿下さんは、公民館や高齢者施設などに出向いて演奏を届ける活動に力を入れた。



「音楽家がいろんな場所で演奏することは、今では当たり前ですが、当初はそんな活動をするピアニストは少なかった。集まった方々に、クラシック音楽の奥深さを知ってもらい、コンサートホールまで足を運んでくれる人が増えたらいいなと」



’00年から10年間住んだ大阪府泉大津市では、そんな地道な活動が評価され、’06年に同市の「フカキ夢・ひとづくり賞」を受賞。



「副賞としていただいた賞金で、市役所に電子ピアノを寄付しました。そのピアノで月に1度、ランチタイムだけの演奏会をしました。市役所に用事があって訪れた人がふと足を止めて耳を傾けてくれる。そんな活動を続けていくうちに、音楽で町づくりができないかと思うように。音楽があふれる町づくりという次なる目標が見えてきました」



私生活では、学生時代に知り合った延日呂さん(49)と結婚。一人娘も誕生した。’10年には夫の仕事の関係で京田辺市へ――。そんな竿下さんを病魔が襲った。最初の症状は軽いせきだった。



「せきが気になるので’23年1月に病院で検査したところ肺炎ではないかと。ところが薬でもいっこうに改善しない。そこで宇治徳洲会病院(京都府宇治市)で、肺の細胞組織をとる『気管支鏡検査』をしてがんとわかりました」





■「何年生きられるかよりも、ピアノを奏でられる時間がどれだけあるかが大事」



告知を受けたのは’23年2月末。実はその3年ほど前の’20年、地元の演奏家でつくる任意団体「京田辺音楽家協会」を、音楽による社会貢献を目的としたNPO法人に組織変更することを条件に、彼女は初代理事長に就任していた。



「NPOの立ち上げは、コロナ禍の真っただ中。コンサートは中止になり、世の中は音楽なんていらないという雰囲気に。それでも、人と人との関係が希薄になりがちな社会にこそ音楽が必要だと思い、あえてコロナ禍にNPO法人を立ち上げたのです」



オンラインでの演奏会、青空の下でのコンサートなど、これまでにない音楽イベントをするため竿下さんはたくさんの汗をかいた。



「イベント会場には多くの市民が集まってくれました。『ずっと閉じ籠もっていたけど、久しぶりにすごく気分がよくなった』と言ってくださる方も。やっぱり音楽は不要なものではなかったのです。新型コロナが、私の反骨精神を燃え上がらせてくれたのでしょう」



音楽イベントの企画や運営、助成金の申請……、慣れない仕事も加わり、当時の彼女の睡眠時間は3時間ほど。さらにコロナ禍で毎年の健康診断も思うように受けられなかったという不運も重なった。



竿下さんが患っている肺腺がんは、日本ではがんによる死亡者がもっとも多い肺がんの約6割を占めている。たばこを吸わない人でも罹患することが多いといわれ、女性の割合が高いことが特徴だ。



「がんかどうかを調べる気管支鏡検査では、どんな薬が効くかも同時に調べます。しかし、主治医の先生によると、最近は肺腺がんに有効な薬(分子標的薬)があるそうですが、私のタイプには合わなかった。そこでがんの増殖を抑える抗がん剤と自分の免疫を強くする免疫チェックポイント阻害薬を併用して治療していくと。それでも余命は1年半、5年後の生存率は10%という説明でした」



末期のがんの告知に加え、1年半という余命宣告。ところが彼女はこう思っていた。



「余命を聞いたとき『あ〜よかった、あと1年半は確実にピアノが弾ける!』と。ステージ4でがんが肺全体に広がっているため、手術ができないと言われたときも『ラッキー!』と思いました。手術で体力が落ちてピアノが弾けなくなったら、生きている意味がない。何年、生きられるかよりも、ピアノを奏でられる時間がどれだけあるかのほうが私にとって大事でした」



’23年3月8日には、竿下さん自らのブログで「公表して頑張っていきます」とこうつづっている。



《自分って本当に「変人」だと思うのですが、逆に癌と付き合っていく自分の未来にわくわくしている部分があります。試練と言えば試練なのですが、この試練に直面したお陰で、何だか毎日一つ一つの物事に喜びを感じてます》



がんを公表したことついて、竿下さんはこう語る。



「体調が突然悪化したときに仕事をスムーズに交代してもらうためです。そもそもがんを怖いものだと私は思っていません。母もだいぶ前に違う部位のがんになり手術をしましたが、今も明るく過ごしています。また夫の父親も、私と同じ肺腺がんになり、抗がん剤治療をやっていますが、10年以上元気で暮らしています。私自身も、がんになったら『しゃあないわ』という思いがあったのでしょう」



前向きな気持ちでいられたのにはピアノの影響もあるという。



「ピアニストという仕事は常に未来を見ています。たとえば演奏会が決まれば、そこに向けていろいろ準備していく。後ろを振り返っている暇はありません。病気になると、つい過去を振り返って“なぜこんな病気に”と原因を探すことが多いと思います。でも、私には過去を振り返る習慣がない。常に頭の中では未来のこと。ポジティブになれたのはピアノのおかげでしょうね」



そう言うとフワリと笑った。





■「抗がん剤の副作用で鍵盤を押すと爪が割れることも。言い出したらきりがない」



死を怖がっている場合ではない。ピアニストとしての活動、そしてクラシック音楽で人の心と地域とを変えたい──。竿下さんには、夢中になることがたくさんあった。そんな竿下さんを家族は、どう支えたのだろうか。



「余命宣告を聞いて号泣した夫は“これから家事は俺がやる”と言い出しました。でもすぐに大変になったみたい。特に不得手な料理は寝言で“しんどい、しんどい”と言うほど。今はできる範囲で家事をサポートしてもらっています。娘には包み隠さずに伝えました。娘は泣くこともなく『ママはそう簡単には死なへん。私は私で人生を楽しむから大丈夫』と。竿下家の女性は強いのです」



竿下さんの気がかりは、彼女の病気が一家を振り回してしまうことだった。



「私ががんになったのは、娘が大学生になって、これから学生生活を満喫するとき。夫も社会保険労務士の国家資格に挑戦していた時期でした。がんになったからといって、やりたいことを諦めないでほしかった。私の病気が家族の中心になってはいけない。それぞれが自分の好きなことをする。それが私にとって一番なのです」



竿下さんは抗がん剤などの治療によって体調は安定している。抗がん剤の副作用について聞くと、



「足がしびれたり、むくんだり。最近は、鍵盤を押すと手の爪が割れることも。その時々で、いろんな副作用があるので、言い出したらきりがない。私としては、抗がん剤を打ったあとは不調なのに、まわりの人には元気に見えるみたい。それに病気のせいで『できない』ではなく『どうしたらできるか』考えるほうが大事。爪が割れるのも、ちゃんとケアしていればピアノも弾けるんです」



彼女はこう笑い飛ばした。そんな彼女の存在自体が、多くの人に影響を与えている。昨年の第九合唱コンサートに参加した佐伯芳子さん(仮名)もその一人だ。



「私は難病を患い、6年前には命を落とすかと思う経験も。いつも不安で家に閉じ籠もりがちに。音楽が好きな娘が学校で、第九の合唱団のチラシをもらってきたときも、こんな体だから……と。でも竿下さんは私と正反対。がんになりながらも音楽でみんなを明るく元気にしたいと活動されていることを知り、ぜひ参加しようと――。



私は病気との向き合い方がヘタクソで、家族にもいっぱい我慢させていました。でも合唱団に参加して、竿下さんを見ていると、病気に対する向き合い方も変わってきて、パーッと空が明るくなったような気分に。音楽の楽しさに触れたことで体調もよくなり、薬の量も減ってきました。今後、私に何かあっても、娘と一緒に第九を歌ったという経験は、娘の支えになることでしょう」



佐伯さんだけではない。竿下さんのリサイタルの後には「私も病気だけど、竿下さんからエネルギーをもらった」という人が少なくなかったという。



ピアニスト、NPO法人の理事長、そしてがんサバイバーピアニストとしての活動と、休む暇もない毎日。健康維持のために月1回、近くにある甘南備山を登山するという竿下さん。’22年には、強風のため9合目で断念したが、富士山登山にもチャレンジした。そのときのブログで彼女は《今までの登山経験で「下山が苦手」》とつづっていた。



11月23日には京都の「けいはんなプラザメインホール」でピアノソロリサイタル、そして年末には「3世代で繋ぐ第九コンサート」が待っている。つねに前を向き、高い山だろうが、低い山だろうが、竿下さんは少しずつ、そして朗らかに、今日も登り続けている――。



(取材:日野和明/文:山内太)



【後編】「未来に“音の灯”を」ステージ4のピアニスト・竿下和美さんが患者として治療中の病院で無料コンサートを開始へ続く

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