
ダイヤの原石の記憶〜プロ野球選手のアマチュア時代
第3回 松葉貴大(中日)
これほど頼れる投手だっただろうか......中日・松葉貴大である。ここまで(7月20日現在)チームトップの7勝をマークし、防御率もリーグ5位の2.03。過去には2点台が一度(14年)あるのみ。その年をはじめ、まだ到達したことのない規定投球回にも達する勢いで、プロ13年目にしてオールスターにも初選出された。
2013年にオリックスに入団すると7年で27勝、19年途中に移籍した中日でも昨年まで22勝。移籍後は「松葉課長」というニックネームをつけられた。空調の効いたバンテリンドームで5回まで投げて"お役御免"というケースが多く、定時に退社する中間管理職を連想させたためだ。だが昨年、8年ぶり2度目の完投勝利を挙げると、今季はコンスタントに7回以上投げるケースが多く、「課長」はすっかり返上だ。
ストレートはほぼ130キロ台。かつての最速149キロは望むべくもないが、「去年まで、ストレートとカットボール、ツーシームでは10キロ前後のスピード差があったのが、今年は5キロ以内におさまっている」と本人。そのうえ、どのボールでも同じフォームで、しかも多彩な変化球をバランスよく投げ分けるから、打者は手こずる。
自身のドラフトイヤーにあたる2012年、大阪体大時代に聞いた話が面白かった。
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【高校1年秋に背番号1を背負うも...】
転機は、大学1年の春だという。阪神大学野球連盟では、関西国際大がリーグ戦のライバル。そのエースである松永昂大(元ロッテ)対策として、同じ左腕の松葉は、フリー打撃で打撃投手を務めることになった。
「少しでも打線の役に立てたら......と思って投げました。その頃の自分なら、全力で投げてちょうど打ちごろだろう、と。なにしろ、高校1年からピッチングはほとんどやっていませんでしたから」
ん? ピッチングをしていないとはどういうことだろう。
松葉が野球を始めたのは、姫路市立中寺小学校時代。これには、父・恭功さんの存在があった。恭功さんは、東洋大姫路の一塁手として、1986年夏の甲子園に出場した。長谷川滋利(元オリックスほか)、嶋尾康史(元阪神)のダブルエースで、チームはベスト8に進出している。幼い頃、自宅で当時のビデオを見ては「お父さんや」と心を躍らせ、勤め先の軟式野球チームで三塁を守る姿に「カッコいい!」と憧れた。
姫路ボーイズを経て父と同じ東洋大姫路に進むと、1年の秋には背番号1を手にした。暗転したのは、そのオフだ。投げ込み過多がたたって、左ヒジを痛めてしまう。すぐ目の前にいる相手にさえタマが届かず、1球投げるだけで痛みにうずくまる。自転車通学では、痛む左腕をぶらぶらさせての片手運転だった。松葉は言う。
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「医者に行ったら、『野球はあきらめてほかのスポーツを考えたらどうや』と言われ、野球を辞めることまで考えました。ただ、中学時代から世話になっていたカイロプラクティック(※)の先生が『絶対、オレが治してやる』と言ってくれたので、それを信じるしかなかったですね」
※関節や筋肉の不調和を調整し、自然治癒力を活性化させることで、症状の改善と体全体の機能向上を目指す治療法
ボールを握らない3カ月は、電気マッサージなど必死の治療を繰り返した。短い距離からおそるおそるキャッチボールを始め、5カ月後にはなんとか40メートルほど投げられるようになったが、全力投球にはほど遠い。焦りを封じ込め、いつの日かマウンドに立つ日を夢見て、走り込みなどピッチャーのためのトレーニングを積んだ。それでも、望みはなかなか叶わない。
【高校3年春に野手として甲子園出場】
最上級生になると、マウンドに立つことよりも、まずは試合に、そして甲子園に出ることが優先になった。「いつかはピッチャーに戻りたいですが、それまでは野手に専念します」と監督に告げ、2年秋からは右翼のレギュラーとして公式戦で3割超の打率を残す。
そして翌08年選抜ではおもに2番を打ち、打率こそ低かったが決勝内野安打を記録するなど、チームのベスト4入りに貢献した。
だが夏の西兵庫大会ではよもやの初戦敗退で、ついにピッチャー復帰はならなかった。その間も治療は続けていたが、結局1年の秋から実戦登板はないまま高校生活を終えたことになる。
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だから大学進学後は、「野手で野球を続ける」と腹を決めた。だが......ひょんなことから回ってきた打撃投手役でなぜか、上級生たちを抑えてしまうのである。気持ちよく打ってもらうのが役目のバッピ(バッティングピッチャー)としては、失格だ。それよりも、ピッチャーとしての株が急上昇する。
松葉は使えるかも──そうなると、ピッチャーへの未練は吹っ切ったつもりでも、ムクムクと欲が出る。どうせ大学で野球生活を終えるつもりなら、やりたいことをやったほうがいいじゃないか。ダメでもともと、もう一度ピッチャーに挑戦したい。つまり入学してすぐ、たまたま打撃投手を務めたことが、ピッチャー松葉をよみがえらせたというわけだ。
「スピードは130キロもなかったでしょうが、もともとコントロールが生命線のピッチャーでしたから制球には自信がありましたし、その感覚は残っていましたね。なにより、いくら投げてもヒジの痛みがなかったのが一番でした」
松葉はそう、振り返る。そして、ピッチャー挑戦を宣言してからわずか4日後。松葉は、優勝のかかった大阪産大戦でベンチ入りすると、1対1と同点の8回、二死満塁でいきなりマウンドに立つことになる。
2年以上も遠ざかった実戦登板である。頭が真っ白になり、どこにどんなボールを投げたかも覚えていない。ただ、フルカウントから押し出しの四球を与えて降板し、チームもV争いから脱落したことだけは覚えている。
「先輩たちは『おまえのせいじゃない』とかばってくれましたが、マウンドに上がれば復帰4日目だろうが関係ありません。申し訳なかったし、屈辱も感じました。こんな思いはもう二度としたくないと、春のリーグ戦後は練習に打ち込みましたね」
嫌というほど走り込んだおかげで、体重は80キロから72キロに減少。だが、投手感覚を取り戻すのに比例して、球速は5キロ刻みで上昇した。
【大学2年以降はエースとして活躍】
すると1年秋には、先発でいきなり4勝して防御率0.38。2年以降はすっかりエースとなり、春は4勝して優勝に貢献すると、大学選手権では145キロを計測した。3年の神宮大会では149キロ。4年時の大学選手権では、三重中京大・則本昂大(現・楽天)と投げ合って、全国初勝利を記録している。
2011年6月には、大学日本代表選考合宿に参加した。1学年上の野村祐輔(元広島)、藤岡貴裕(元ロッテ)らのレベルの高さ、練習の量、野球への考え方を目の当たりにし、過信しかけていた自分に気がつく。そして同部屋になったのが、世代ナンバーワンといわれる亜細亜大の東浜巨(現・ソフトバンク)だった。
「僕には落ちる系のタマがなかったんです。フォークやチェンジアップに挑戦してみたんですが、指が短くて不器用だし(笑)、どうもうまくいかない。それで思い切って、東浜に聞いてみたんです。握り方、気をつける点......これが自分にしっくりきて、チェンジアップが新しい武器になりました」
その年秋のリーグ戦は4勝無敗、防御率の1.24は春から0.70近くも向上したから、東浜直伝の新球の効果は絶大だった。当時、こう振り返っている。
「自分の持ち味はスピードというより、両サイドを出し入れするコントロールと真っすぐのキレです。それにしても......大学に入学した時、ドラフト候補なんて考えてもいませんでした。なにしろ、大学で野球は終わり、そのあとは教師に......と思っていたくらいですから」
その年のドラフトで1位指名されてから13年。今年8月に35歳を迎える松葉は、いまや中日投手陣を支える大きな柱である。