上智大中退後、アルコール依存&生活保護受給者に…「人生の迷子だった男」が年商85億円企業を創るまで

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2025年07月22日 09:10  日刊SPA!

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株式会社土屋 代表取締役 高浜敏之氏(52歳)
「アルコール依存症で生活保護受給者だったダメ人間の自分が、真人間に変わりたかったのが、この仕事を始めて会社を立ち上げた動機の半分です」と重度の障害者への訪問介護事業を全国展開する株式会社土屋の代表、高浜敏之氏(52歳)は笑った。
グループ合計で年商85億円に達しようとする株式会社土屋は、2025年7月現在で、従業員数2881人・全国に140事業所を擁する。介護業界の平均年収は370万円にとどまる中、平均420万円・1000万円プレイヤーも多数在籍するという破格の待遇でも知られる。その破天荒な人生を聞いた。

◆実家は風呂なし四畳半。「貧乏人」といじめられた幼少期

今でこそ、介護・障害福祉の一大法人の代表取締役となった高浜氏は、東京都昭島市の風呂なし四畳半の実家に、4歳下の弟と両親の4人家族の長男として産まれた。母が10歳、父は8歳の頃に終戦を迎え、父は孤児として育つ。父は、高浜氏が生まれる前に、結核になり、療養所に入っていた時期もあり、小学校3年生の時に経営していた会社が倒産し、一家の生活は困窮していた。どんな幼少期を送ったのか。

「気が弱くて泣き虫でいじめられっ子でした。同級生に『バカ浜!』『2+3はいくつだ?』と言われて『分かんねえよ!』と泣いているような、知的な発達も多少遅れた子どもでした(笑) 実家に風呂がなかったことで、『貧乏人!』とよくからかわれました」

小学校2年生のある日、母と共に銭湯の女湯に入ると、クラスの女子たちに遭遇してしまう。

「女子たちに『キャー!』と言われ、バレないように股間のものを隠そうと足の間に挟みました。すでに顔を見られているし、時すでに遅し、まったく意味ないのですが(笑) その時に初めてジェンダーを意識し、だんだんと男らしくなっていきました」

プロボクサーを目指して挫折した父は、親兄弟もおらず、結核になったこともあり、破れかぶれの生活を送っていた。たびたび暴力事件を起こし、留置場に入ることもあった。

「そんな父でしたので、『男らしくあれ』ということは常に言われていました。喧嘩でも負けてはいけないと。両親ともに中卒で学はありませんでした。だけど、父は、向学心がありました。酔っぱらうと、純文学の朗読を子どもにしていました。父の影響は大きいです」

◆喧嘩で前歯を全損した過去も

父は子どもが生まれるとともに、新聞配達夫から不動産業界に転職する。

「貧乏人といじめられたと話すと、『勉強していい大学に入っていい企業に就職しろ』とも言っていました。だから、勉強すること・男らしくあることを同時に求められました」

中学校に進学すると、その時代は非行や校内暴力が問題となっていた。高浜氏も、漏れなく、学校でのバトルに参戦する。

「父からボクシングを習っていたこともあり、校舎はリングくらいに思っていました。喧嘩で、前歯を全損し、その頃から差し歯です。思えばこの差し歯とは、15歳から40年近い付き合いです。そろそろインプラントにしようかと考えています」

だけど、中2の1年間は、勉強に専念し、成績はオール5の優等生。高浜氏は、高校は、進学校に進学する。

◆上智大学を中退し帝拳ジムでプロボクサーを目指す

上智大学法学部に入学した高浜氏は、アルバイトをしながら、本格的にプロボクサーを目指し、大学キャンパスの近くにあった名門の帝拳ジムに所属する。

「辰吉丈一郎(WBC世界バンタム級世界王者・大阪帝拳)さんや鬼塚勝也さん(WBA世界スーパーフライ級王者・協栄ボクシングジム)が活躍していて、ボクシングブームの頃でした。父は学歴をつけることを望んでいたので大反対しました。その頃には、父は再び不動産会社の社長になっていて、実家は一転裕福になっていました。それなので、ボクシングに専念し、大学は2年で中退しました」

帝拳ジムで期待の練習生と目されていたが、プロになる手前で、挫折。そこから、高浜氏は、人生の迷子となってしまう。

◆慶応大学の哲学科に進学するも父は末期がん

ボクシングに挫折した高浜氏は、23歳の時に、慶応大学文学部哲学科に入学し、人生を考え直そうと思った。

「学校の先生になろうと思っていました。だけど、父の末期がんが発覚し、またバイト尽くしの生活になったんです。新聞奨学生(新聞社系列の奨学会が提供する奨学金制度を利用して、新聞販売店で働きながら学校に通う学生のこと)になりました。それなので、卒業まで7年間かかっています」

大学で文学・哲学・人間学を学んだ高浜氏は、哲学や文学など学んだ学問が活かされる仕事に就きたいと思うようになっていった。周囲には、作家を目指し、介護で生計を立てて行こうとする友人も多かった。介護の世界に興味を持ち始めた。

30歳で大学を卒業すると、「自立ステーションつばさ(代表:現参議院議員・木村英子)」に入社し、重度障害者の支援にあたる。

「介護の世界のホスピタリティーの奥深さに惹かれました。重度訪問介護のジャンルは、当事者が自ら闘って作ってきた部分があります。『人生は闘い』と思っていた自分は、今度は、世の中を変えていく闘いをしようと思いました」

そんな高浜氏の中で、病がじわじわと進行していた。

◆10代後半からの飲酒がたたりアルコール依存症に

「酒は父の影響で、10代後半から飲んでいました。その頃から、酒乱の気があり、大暴れして警察を呼ばれたり、仕事をブッチすることもたびたびありました。毎日ではないですが、飲むときは1日にウィスキー1本、ワイン2本ほど飲んでいました。バイトはしても、そのお金は酒に消え、社会生活がままならなくなりました」

ある日、酒の離脱症状で、不安発作に襲われた。35歳のとき、アルコール依存症の診断が下る。同時に、生活保護受給をすることになった。

「35歳から38歳の間は生活保護受給しながら、自助グループ通いをしました。リハビリの日々でした。今、重度訪問介護の仕事をしている半分の動機は、ダメ人間から更生したかったからです。半グレや反社などが、更生して、NPO法人の代表になったり牧師になるのと似てるところがあるかもしれません(笑)」

その後、高齢者向けグループホームなどで働き、社会復帰を遂げる。47歳で、重度訪問介護の株式会社土屋を起業する。

◆介護の世界の嫌儲主義に疑問

高浜氏は、規模の経済を活かし、事業展開することで、年商85億円の売上に達しようとし、従業員にキャリアパスの道を切り開いている。嫌儲主義の介護業界でこれだけの実績を出すと、ひがみもあるのではないか?

「よく『儲け主義』といった批判を受けます。だけど、そういった私たちを批判する小規模事業者もM&Aをすると、経営者だけちゃっかり高額の役員報酬をもらっていたりする(笑) 『批判してたけど、自分たちもしっかり儲けているじゃないですか!』と言いたくなることがあります。利益だけを追い続けるのは、人の生活を支える仕事においては危険だと思います。だけど、私も昔は、そんな事業所の社長を、金儲け主義と嫌悪感を抱き、時に罵っていました。しかし、一定の利益を出さなければ、肝心のサービスを提供し続けることはできません」

介護事業者の利益は、介護報酬で一律に決まっている。スケールメリットを活かしたことで、高賃金も実現し、社員に還元している。最後に、これから重度訪問介護を目指したいという人への言葉を聞いた。

「私もグループホームやデイサービスなどで働いてきましたが、訪問介護は密室なので、逃げられません。1対1で存在を突きつけられる。介護士は重度の障害者の眼差しにロックされます。命と直に向き合うことで、自己承認欲求も満たされるので、かつての私のように人生の迷子になっているなら、歓迎します」

社員の「やりがい」を利用し、低賃金でこき使う「やりがい搾取」のような事業者も多い中、高浜氏のような考え方が、人材不足の鍵となるのではないか。

<取材・文/田口ゆう>

【田口ゆう】
立教大学卒経済学部経営学科卒。「あいである広場」の編集長兼ライターとして、主に介護・障害福祉・医療・少数民族など、社会的マイノリティの当事者・支援者の取材記事を執筆。現在、介護・福祉メディアで連載や集英社オンラインに寄稿している。X(旧ツイッター):@Thepowerofdive1

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