
MLBのサムライたち〜大谷翔平につながる道
連載01:野茂英雄
届かぬ世界と思われていたメジャーリーグに飛び込み、既成概念を打ち破ってきたサムライたち。果敢なチャレンジの軌跡は今もなお、脈々と受け継がれている。
MLBの歴史に確かな足跡を残した日本人メジャーリーガーを綴る今連載。
第1回は30年前、さまざまな障壁を突破し、後年の日本人選手に道を開いた野茂英雄を紹介する。
【すべては「トルネード旋風」から始まった】
今年はアトランタでメジャーリーグのオールスターゲームが行なわれたが、30年前の7月、野茂英雄がオールスター戦で先発登板した日のことは忘れられない。
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1995年、ロサンゼルス・ドジャースに移籍した野茂が初めてメジャーリーグのマウンドに上がったのは5月2日。このシーズンはストライキで開幕がずれ込み、通常よりも1カ月ほど遅くなっていたのだ。
サンフランシコ・ジャイアンツとのデビュー戦は5回を1安打、7奪三振、無失点。なかなか勝ち星に恵まれなかったが、初勝利を挙げたのは1カ月後の6月2日のニューヨーク・メッツ戦、それから快進撃が始まる。
6月14日、ピッツバーグ・パイレーツ相手に16奪三振(新人としての球団新記録)。
6月24日、ジャイアンツ相手に初完封。
6月29日、直近4試合で50奪三振(球団新記録)。
この6月は6勝0敗、防御率0.89というすばらしい成績を残し、月間最優秀投手に選ばれた。
「トルネード旋風」が始まったのだ。
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デビューしてわずか2カ月、7月11日に行なわれたオールスター戦で、ナショナルリーグの先発投手に選ばれるまでになったのだ。
しかし、このマウンドに立つまでの道のりは険しかった。
野茂は1990年に近鉄バファローズに入団すると、1年目に最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率の投手四冠を達成するなど、日本球界を代表する投手となった。
そんな野茂が「任意引退」という道を選び、近鉄と袂を分かつ形でドジャースに移籍した。当時は「裏切り者」と呼ばれた野茂だったが、移籍して早々に日本中の喝采を浴びたのだから、世論とは移り気なものである。野茂のモチベーションはシンプルだった。
「最高と思えるバッターと勝負できる。これが楽しくて仕方がなかったです」
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この言葉こそが、野茂がメジャーリーグでのプレーを渇望した理由だろう。
ダグアウトでの表情は柔和だった。
「希望はありますけど、不安はありません」
このコメントはメジャー移籍当初のものと思われがちだが、3年目の1997年のものだ。野茂はずっとスリルを求めてマウンドに立ち続けていたのだと思う。
私がアメリカで見た試合で忘れられないのは、2002年7月1日にアリゾナでのランディ・ジョンソンとの投げ合いである。この試合で野茂が魅せたのは「バット」だった。
0対0で迎えた5回表、レフトの頭を超える二塁打を放ち、先制点をたたき出した。「えっ? ホームラン?」と思ったほどで、痛快そのものだった。
野茂はダイヤモンドバックス相手に8回零封で勝ち投手となったが、野球の意外性を見せてくれたこの野茂の打席は、いまでもありありと思い出せる。
なにか想像以上のことを野茂は見せてくれる。そんな予感に満ちた選手だった。
【「頼りになる男」を証明した4度の200イニングシーズン】
最後に野茂のユニフォーム姿を見たのは、2008年のスプリングトレーニングでカンザスシティ・ロイヤルズに移籍した時だった。手術から復帰して契約を勝ち取ったが、最後まで野茂は投手としてあがいた。引退に際しては会見を行なわず、
「引退する時に悔いのない野球人生だったという人もいるが、僕の場合は悔いが残る」
と関係者に話したという。
振り返ってみると、野茂がメジャーリーグで成功できたのは、スプリットという三振を取れる球種を持っていたこと(1995年と2001年の2度、奪三振王)、そして"頑丈"だったことが要因だったと思う。
メジャーリーグの先発投手で「頼りになる男」とされるのは、シーズン200イニング以上を投げられる投手だ。出来高で評価されるのは勝ち星ではなく、イニング数だ。
野茂は1996年、1997年、2002年、2003年と4シーズンで200イニングを超え、1995年、2001年、2002年は190イニング以上を投げている。
ほかの日本人投手では、黒田博樹が3度、岩隈久志、松坂大輔、ダルビッシュ有(現サンディエゴ・パドレス)がそれぞれ1度ということを考えると、野茂のシーズンを通してのタフさが際立つ。現在、日本国内では中6日のローテーションを守れない投手がいることを考えると、野茂に学ぶことは多いのではないか。
野茂が引退後、ラジオ番組で一度だけインタビューをしたことがある。アメリカへの移籍についての話になり、私が、「高校を出てから、日本のプロ野球で経験を積んでからアメリカに行ったほうが、近道だったりするんでしょうか?」と質問をしたところ、野茂は即座に、
「早く行ったほうがいいですよ。そのほうがいいです」
と答えた。
「日本球界は、もっと規制緩和をしてほしいと思っています」
とも語ったが、そうした話をすることに飽きていたかもしれない。1990年代から、野茂は一貫して、行動で示していたのだから。
そしていま、日本の高校からアメリカの大学へと進み、メジャーリーグのドラフトに指名される選手も出現し、日本国内だけではなく、複数の「世界線」が野球界には浮かび上がりつつある。
オールスター初先発の日から、30年。野茂が開いた扉から、さまざまな道が拓かれている。
野茂英雄は正真正銘のパイオニアだった。
【Profile】のも・ひでお/1968年8月31日生まれ、大阪府出身。成城工業高(大阪)―新日鉄堺。1989年NPBドラフト1位(近鉄)。1995年にロサンゼルス・ドジャースと契約。
●NPB所属歴(5年):近鉄(1990〜94)
●NPB通算成績:78勝46敗(139試合)/防御率3.15/投球回1051.1/奪三振1204
●MLB所属歴(11年):ドジャース(ナ/1995〜98途)―ニューヨーク・メッツ(ナ/98)―ミルウォーキー・ブルワーズ(ナ/99)―デトロイト・タイガース(ア/2000)―ボストン・レッドソックス(ア/01)―ドジャース(ナ/02〜04)―タンパベイ・レイズ(05)―カンザスシティ・ロイヤルズ(ア/08) *ナ=ナショナルリーグ、ア=アメリカンリーグ
●MLB通算成績:123勝109敗(323試合)/防御率4.24/投球回1976.1/1918奪三振
●MLBタイトル受賞&偉業歴: 最多奪三振2回(1995、2001)/新人王(1995)/オールスター出場1回(1995)/ノーヒットノーラン2回(1996、2001)
●主な日本代表歴:1988年ソウル五輪(2位)
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