長野県に集団疎開していた頃の日記を読む長谷川直樹さん=5月11日、東京都世田谷区 太平洋戦争の敗戦が迫る中、国は1944年、都市部の子どもを空襲から守るため地方へ避難させる集団疎開を始めた。東京都世田谷区の長谷川直樹さん(91)も親元を離れ、1年3カ月を長野で過ごした。空腹やシラミに耐え続けた長谷川さんは「戦争は絶対にしてはいけない」と語る。
44年8月下旬、同区の山崎国民学校(現山崎小)の3〜6年生百数十人は、夜行列車で長野県本郷村(現松本市)にある浅間温泉の旅館へ向かった。当時10歳の長谷川さんもその一人だった。
疎開生活でつらかったのは空腹だ。年末年始などを除き、基本的な献立は、サツマイモなどを混ぜたご飯にみそ汁、おしんこだった。質素なものが多く、食べ盛りの少年には量も少なかった。
集団生活ではノミやシラミの発生は避けられない。親指でつぶすも切りがなく、かゆさに苦しんだ。毎日風呂に入っても改善しなかった。
疎開先に親が会いに来られるのは数カ月に1回程度で、それも親がくじ引きで当たった場合だけだった。長谷川さんは一度も会えなかった。
親と連絡を取るにははがきしかないが、そこに検閲が入った。「おなかがすいてたまらない」「帰りたい」とは書けず、自らを鼓舞するためか、大みそかの日記には「昭和20年こそ決戦の年だ」と大きく記した。
45年2月末、戦闘機改修のため近くの飛行場に来た飛行隊員十数人と旅館で知り合った。夕食時に軍歌を歌い、一緒に風呂に入った。
「温泉の上を飛んであげる」。そう言っていた隊員らは、出発時に低空で何度か旋回した。子どもたちは2階の窓を開けて「万歳!万歳!」と声を上げ、手を振って送り出した。はがきを出すと、隊員の一人から返事が届いた。「出撃の日を今日か明日かと心待ちにしている」などと書かれた4通は今も手元に残る。
国は3月、疎開を強化。長谷川さんらは4月に今の同県安曇野市に再疎開した。地元の子たちに「疎開っ子」とはやし立てられたが、大きなおにぎりをくれた子もいた。
ラジオを聴くことが禁じられていたため、終戦はいきなり知った。その瞬間、「やっと帰れる」と強烈な喜びが込み上げたことを今も思い出す。
あれから80年余りたつが、世界では今も戦争が続く。長谷川さんは「戦争に巻き込まれ、ひどい経験をしている子どもがいることを忘れてはいけない。戦争は絶対してはいけない」と話した。