
辻発彦インタビュー
1980年代から90年代にかけて黄金期を築いた西武ライオンズ。その中心メンバーとして活躍し、のちに監督も務めた辻発彦さんが、当時のチームの雰囲気、厳しいと噂されていた広岡達朗監督の「管理野球」の実態、そして自身の成長の裏側を語った。
【厳しかった管理野球】
上重聡(以下、上重)辻発彦さんといえば、1984年入団で西武黄金時代※の主力メンバーでした。あのころは毎年優勝していましたし、メンバーも豪華でした。改めて当時を振り返るといかがでしたか?
※1982年〜85年広岡達朗監督時代、1986年〜94年森祇晶監督時代
辻発彦(以下、辻)恵まれた時代というか、いい時に入らせてもらったと思います。たくさん優勝も経験させていただいて楽しい時間でした。
上重 メンバーが揃っていましたよね。当時はどんなチームでしたか?
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辻 一人ひとりが本当にプロフェッショナルの集まりという感じでした。もちろん自分にも厳しいですし、チームメイトにも厳しくて、ピリッとした空気がありました。そのあと(1996年から)ヤクルトスワローズに移籍した時、ヤクルトは驚くくらいフレンドリーでした。こういうチームも強いんだって発見がありましたね。
上重 西武と対象的ではあるんですけど、両方強かったですよね。
辻 ヤクルトは現代的かもしれないですね。
上重 当時の西武は「管理野球」みたいなことも言われていましたが、実際はどんな管理をされていたんですか?
辻 食べ物から何から何まで管理されます(笑)。ゲーム前にカレーを食べたり、うどんを食べたりはしないんです。野菜スティックとかクラッカーが用意されていて、あとはフルーツとかで主食という主食はなかったですね。
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上重 それはお腹があまりいっぱいになると、いいパフォーマンスできないという考えですか?
辻 そうそう。今じゃ考えられないですよ。
上重 それは広岡さんがそういうデータというか、考えを持っていたんですかね。
辻 そういうことですね。だから遠征先でも玄米を食べていました。
上重 今は栄養士が入ったり、管理があるのは当たり前ですが、当時は最先端ですよね。
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辻 そうですね。当時は選手の奥さんたちが(栄養や料理の)勉強会をしていました。
【広岡監督には褒められたことがない】
上重 あらためて、入団当初の西武の印象はいかがでしたか?
辻 すごいなと思いましたよ。入団前年の1983年はジャイアンツに勝って日本一になったチームですから、そういう強いチームに入ったんだと。ただ、(入団前から)広岡監督は「管理野球」で厳しいというのを報道とかで見ていましたし、石毛宏典さんもすごく(厳しい管理を)やられたみたいなことも耳にしていました。自分の力を出すというか、そういう(厳しい)ところに行ったほうが自分はいいんじゃないかと思って、西武に入ることになりました。本当に毎日がピリピリしていましたよ。
上重 広岡さんは内野手出身なので、特に内野手に厳しいと聞いたことがあります。
辻 褒め言葉の「すごい」とか「ナイスプレー」とか聞いたことがない。1年目に海外のキャンプに行って、監督がノックをしてくれるんですけど僕が下手なので、「ちょっとこっちに来い」と脇に追いやられて、「ノックするのは10年早い」くらいのことを言われました。ボールをポンと置かれて、「このボールを取ってみろ」から始まりましたね。
上重 基礎の基礎という。
辻 そう。それからずっとふたりで、素手でゴロを転がしたりして......。あの時間がよかったと思います。
上重 我々が見ている時の西武は、もう皆さんが洗練されていて完成されているイメージなんですが、その前から基礎をちゃんとやってきて、あの黄金時代があるということですか?
辻 たぶん僕が入る前は黄金時代の先駆け(82年初のリーグ優勝、初の日本一/83年連覇)だったと思うんですよ。本当によくなったのは僕が入ってしばらくして、秋山幸二とか伊東勤とか、もちろん清原和博とかもいたけど、その時はやっぱりちょっと違ったと思います。
上重 広岡さんは、小さいグローブを使って「素手で取るような感覚で」ともおっしゃっていました。
辻 当時はそういうグローブはなかったですね。ただ、今はみんなグローブから人差し指を出すじゃないですか。それがダメだった。監督が練習を見に回ってきたら、指を中に入れてやっていました(笑)。1年目はそういう感じで、キャンプでは、キャッチボール、ランニング、ペッパー(打撃練習)を2セットぐらいやるわけですよ。それが本当にきつかったです。
上重 ペッパーは投げて、打って、ずっと繰り返しですもんね。
辻 それでフラフラになっていました。
上重 バッティングでいうと、社会人時代は3番も打っていましたよね。
辻 3番を打ったこともありますけど、最後のほうは1番を打っていました。
上重 西武に入ってからは?
辻 1年目はプロのスピードにもなかなか慣れないし、バットを指1、2本ぐらい短く持ってやってみても、結果が出ずに二軍にいました。2年目から試合に少し出るようになったころ、広岡さんから試合前に「とにかくひと握り短く持て! お前はインコースが強いから、ベースに思いっきりくっついてアウトコースを真ん中ぐらいにして全部引っ張れ」と言われて、その時は先発メンバーだったんですけど、3塁線に2本ツーベースを打ったんです。いきなり結果を出したので、それをずっと続けました。オールスターの時期(7月)ぐらいから、終盤まで3割ぐらい打てましたね。
上重 辻さんのイメージは、バットを短く持って右に左に打つイメージですが、広岡さんのアドバイスがあったんですね。
辻 そうそう。こっちはプライドも何もないから、とにかく結果で、その時は全部引っ張っていたんですよ。右に打つようになったのは、後々レギュラーになってからです。バッティングは引っ張れなかったら、いいバッターになれないと気づきました。
上重 基本は、しっかり引っ張れることがあってこその右打ちだということですね。
辻 右打ちは簡単だと思う。(右バッターは)普通に打ったって右に飛ぶわけで、あとは角度だけだから。
上重 広岡達朗さんの教えや言葉のなかで印象に残っていることはありますか?
辻 先ほど言ったように褒め言葉がひとつもないわけですよ。キャンプが終わって、西武第2球場でダブルプレーの練習をセカンドの3人ぐらいでやっていたんです。それからバックトスの練習するんですが、僕がすごくうまかったらしくて、広岡さんから「誰でもひとつは取り柄があるんだな」って。それがもう最大の褒め言葉で唯一褒められたこと。その言葉は忘れられないですね。
上重 バットを短く持ったり、華麗な守備を見ていると、小柄な方だという印象があるかもしれないですが、身長は180cm ありますもんね。
辻 あります。今はちょっと縮んできましたけど(笑)、入団した頃は182cmありました。
上重 当時は大型二塁手ですよね。
辻 はい。あの頃、西武の内野手はみんな大きかったんですよ。(188cmの)清原がファーストにいて、セカンドに僕がいて、ショートに(180cmの)石毛さんがいて、(186cmの)秋山がサードやっていて、みんな180cmオーバーで大きかったんですよね。
上重 私も辻さんにお会いして、大きい方なんだって結構びっくりしました。
辻 これは12球団、「プロ野球界の七不思議」のひとつらしいです(笑)。古田敦也が初めて神宮球場で僕に会った時の第一声は、「でかっ!」でした(笑)。
【Profile】
辻発彦(つじ・はつひこ)/1958年10月24日、佐賀県出身。1983年にドラフト2位で西武ライオンズに入団。16年間の現役時代で複数のゴールデングラブ賞やベストナインを受賞。2017年より2022年まで6年間、西武ライオンズ監督を務めた。現在は野球解説者として活動している。
上重聡(かみしげ・さとし)/1980年5月2日生まれ、大阪府出身。PL学園時代にエースとして活躍。立教大では東京六大学リーグで史上ふたり目の完全試合を達成。卒業後の2003年にアナウンサーとして日本テレビに入社。2024年3月末をもって同社を退社し、現在はフリーアナウンサーとして活動している。