ラグビー日本代表2015「陰の立役者」廣瀬俊朗はキャプテンを外されてピッチに立てなくてもサポートし続けた

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2025年10月22日 07:10  webスポルティーバ

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語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第33回】廣瀬俊朗
(北野高→慶應義塾大→東芝)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載33回目は、慶應義塾大、東芝、そして日本代表でもチームを統率した「キャプテン」SO/WTB廣瀬俊朗(ひろせ・としあき)を取り上げる。力強いリーダーシップで、東芝ではトップリーグ3連覇、日本代表では「ブライトンの奇跡」など、すばらしい結果を残した。その手腕は引退後も幅広いフィールドで生かされている。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

   ※   ※   ※   ※   ※

 24年間未勝利だったラグビーワールドカップで、南アフリカを下す「ブライトンの奇跡」を筆頭に予選プールで3勝をマーク。2015年、日本代表チームは歴史的快挙を成し遂げた。

 その大きく飛躍したチームをまとめあげて、「陰の立役者」として脚光を浴びたのが、当時33歳にして初めてワールドカップメンバーに選ばれた廣瀬俊朗だった。ただ、彼は記念すべきワールドカップの舞台で、1分たりともピッチには立っていない。

 2012年、サントリーの監督だったエディー・ジョーンズHC(ヘッドコーチ)が日本代表の指揮官に就任する。ワールドカップの勝利から遠ざかったチームを変えるべく、世界的名将が選んだキャプテンが、2007年以来しばらく代表に呼ばれていなかった廣瀬だった。

「人間性とキャプテンシー」

 ジョーンズHCは会見の席で、廣瀬の選出理由をこう語った。その一方で、久々に選ばれたことに対して廣瀬は「驚いたでしょ。僕も驚きました(笑)」と正直な気持ちを吐露した。

【たとえ試合に出られなくても...】

 ジョーンズHCはハードワークで知られていた指導者。エディージャパンが立ち上がると、「ヘッドスタート」と呼ばれる朝5時からのきつい練習が始まった。30歳を迎えようとしていた廣瀬は、常に先頭に立ってチームを引っ張り続けた。

 そのハードワークの成果は、確実に結果として返ってくる。エディージャパン初年度は欧州遠征で初めてヨーロッパ勢(ルーマニア代表、ジョージア代表)に勝利し、2年目の2013年6月には史上初めてウェールズから白星を挙げた。

「廣瀬は2年間、すばらしいキャプテンとして務め、本当に強いチームを作ってくれた」(ジョーンズHC)

 そう褒められた廣瀬だったが、2014年の春、つらい現実にぶつかる。「試合に出るポジションを保証できない」として、ジョーンズHCが廣瀬をキャプテンから外したのだ。後任にはリーチ マイケルを指名し、さらにはチーム事情によりWTBだった廣瀬にSOへの挑戦を命じた。

 それでも廣瀬は、決して下を向くことはなかった。

「チャレンジするだけでした。日本代表でプレーできること、SOとして新しい挑戦ができることもうれしかった」

 ジョーンズHCの過酷な練習スケジュールも、廣瀬は全力でやり通した。その結果、エディージャパンはテストマッチ11連勝や世界ランキングひと桁(9位)など、日本ラグビーとして初めての快挙を次々と成し遂げる。そのチームにおいて、廣瀬の貢献度は決して小さくなかった。

 そして迎えた2015年。ジョーンズHCから「ファーストチョイスではない」と言われながらも、廣瀬は「ここまで来たら、このチームの行く末を見てみたい」とサポートし続けた。

「試合に出たいですが、選ぶのはエディーさん。たとえ試合に出られなくても、今、チームから求められていること、自分がやれることをひたすらやるだけでした」

 廣瀬のピッチ外での献身があったからこそ、ワールドカップで3つも勝てた。それは間違いない。勝ち点差で決勝トーナメントには進出できなかったが、日本代表メンバーは胸を張って帰国した。

「試合に出られなかったのは悔しいですが、くじけずにがんばっていれば、次のフィールドでも何かの成長につながる。エディーさんの厳しい練習を通して、やっぱりタフになってきました。今後の人生、何があってもへこたれないかな(笑)」

【慶應義塾大・伝説のキャプテン】

 4年間のすべてを日本代表に注ぎ、心からチームの成功を願った廣瀬俊朗という男は、どんなラグビー人生を送ってきたのか。

 生まれはラグビーの盛んな大阪。5歳から吹田ラグビースクールで楕円球を追いはじめ、中学を卒業するまでスクールでプレーを続けた。ただ、ラグビー競技一辺倒ではなく勉強との両立を貫き、大阪の進学校・北野高に合格した。

 高校で花園出場は果たせなかった。しかし、個の能力の高さが評価されて高校日本代表に選出。フランス遠征では主将を務めるなど、その頃からキャプテンシーは折り紙つきだったという。

 高校卒業後は慶應義塾大に進学。理工学部に在籍し、「文武両道」を貫いた。大学では主にSOで、時にはFBとしてもプレーしている。慶應義塾大でもキャプテンを任され、優勝に届かぬとも最後までチームを引っ張った。のちに後輩たちからは「伝説のキャプテン」と称される。

 2004年、東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)に入部。翌年に慣れ親しんだSOからWTBに転向すると、一気に能力が開花した。SOで培ったパス、ラン、キックの総合的なスキルと、対人の強さやアウトサイドの展開力が合わさり、トライも奪えるWTB像を確立した。

 そして2007年4月、ジョン・カーワンHC時代に初めて日本代表に選出され、香港戦で初キャップを得た。ただ、その後は代表から落選。本人は「おごりがあったのかも」と振り返る。

 所属する東芝ではBK陣の主軸としてトップリーグ3連覇に貢献。しかし、2007年度はキャプテンを任されたものの3位に終わって連覇を逃し、ここでも挫折を味わう。

「学生時代は『自分が一番うまい』というバックグラウンドがあって、みんなに意見をしていました。しかし、社会人では自分よりうまい選手や年上の方がいるので、学生時代とは違う。自分らしさを追求しながら、周りの人を尊敬し、みんなの意見を聞くところが身につきました」

 社会人として初めてのキャプテンは、大いに悩み、苦しんだ。ただ、その経験が糧(かて)となり、「自然体で接する」という廣瀬のキャプテンシーの姿勢が形作られた。それがのちに、日本代表でも生かされたのは間違いない。

【引退後は俳優としても活躍】

 迎えた2008年度。廣瀬は再びキャプテンとしてチームを牽引し、東芝はトップリーグ王者に返り咲く。そして廣瀬はプレーオフMVPに選出。さらに2009年度も連覇を成し遂げ、東芝の黄金期を築いた。

 ちなみにこの頃、代表への復帰待望論は出てきていた。しかし実現することはなく、ジョーンズHC就任まで5年間、待たなければいけなかった。

 その後、初めてのワールドカップを経て、2016年に34歳で引退。30年にわたるラグビーキャリアに終止符を打った。

「体力的に言えば、まだプレーできたと思います。ですが、ワールドカップが終わった時に進退は決まっていました。人生は限られている。ターゲットにしていた大会が終わったので、次に早く向かいたいという気持ちが大きかった」

 引退後、広瀬は東芝で1年間だけBKコーチを務めたあと、俳優やスポーツキャスターという新たな道にチャレンジする。2019年のテレビドラマ『ノーサイド・ゲーム』で主要キャストを演じて知名度を広げた。

 その後はMBA(経営学修士)を取得して自ら立ち上げた会社でビジネスを展開。さらには日本車いすラグビー連盟の副理事長を務めるなど、ラグビー界屈指の「文武両道」として活躍している。

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