浦和レッズを強豪に変えたブッフバルト 監督として3つのタイトルをもたらした

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2025年10月24日 07:20  webスポルティーバ

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Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第16回】ブッフバルト
(浦和レッズ)

 Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。

 第16回はギド・ブッフバルトを取り上げる。浦和レッズの歴史を編んだ外国人選手は多いが、そのなかでも彼は特別な存在だろう。Jリーグにやってきたセンターバックのなかでも、歴代最高と言って差し支えない。選手の評価基準は人それぞれだとしても、彼の足跡には減点材料が見当たらない。

   ※   ※   ※   ※   ※

 さて、いったいどこから手をつければいいだろう。

 何を書くべきだろう。

 ブッフバルト──愛称「ギド」のキャリアには、語るべき多くのシーンがある。彼を知る人の数だけ、トピックがある。浦和レッズの一員としてJリーグに残した足跡だけでも、一冊の単行本が仕上がるぐらいだ。

 Jリーグ開幕2年目の1994年夏に来日した。ドイツ代表としてアメリカワールドカップに出場し、準々決勝のブルガリア戦に敗れた1週間後にはもう、極東の島国にやって来ている。

 翌日には記者会見に臨み、10日も経たないうちに公式戦に初出場した。鹿島アントラーズとのナビスコカップである。

 アウェーの浦和は白いユニフォーム、黒のパンツを着用した。ドイツ代表で見慣れたカラーが、世界を知る男がやってきたという事実をあらためて告知しているかのようだった。

 ポジションは守備的MFだった。3バックと連係し、鹿島の得点源アルシンドをシャットアウトする。公式戦4連敗中の敵地カシマスタジアムでつかんだ初勝利は、ギドとウーベ・バインの新加入コンビがもたらしたものだった。

【長い足でボールを刈り取った】

 ギドが本領を発揮するのは、加入2年目の1995年である。シーズン開幕から3バックの中央に構え、守備の安定感を高めていく。

 中盤にバイン、前線に福田正博とセンターラインが固まったのは大きく、ベテランの広瀬治や伸び盛りの山田暢久、岡野雅行らが特徴を発揮していく。ギドを中心とした守備陣が相手の攻撃を跳ね返し、バインと福田(or岡野)がホットラインを形成するサッカーが、勝利に結びついていくのである。

 ファーストステージは15勝11敗で横浜マリノス、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)に次いで3位に食い込んだ。過去2シーズンはふた桁順位だったから、一気に上位へ躍り出たことになる。セカンドステージは8位にとどまったものの、年間総合ではヴェルディ、マリノス、名古屋グランパスエイトに次ぐ4位でフィニッシュした。

 2ステージ制で合計52試合を戦ったこのシーズン、ギドは51試合に出場している。34歳にしてフル稼働したタフネスさは目を見張るものがあり、そのクリーンなディフェンスは日本人DFのお手本となった。

 1対1では、まず負けない。そもそもスピード豊かなタイプではないものの、シュツットガルトでもドイツ代表でもスピードで振りきられた場面が記憶に少ないのは、リーチの長さに理由があっただろう。ギリギリまで伸ばした足が、シュートをブロックする。1対1の対応で瞬間的に逆を突かれても、長い足でボールを刈り取った。

 スライディングの技術も高かった。フォームが美しかった。伸ばした足と手を突く位置と、上半身の重心がバランスよく収まる。写真で見るギドのスライディングは、いつもフォームが同じなのだ。

 身体に染み込んだ技術が、守備者としての神髄だったのだろう。21世紀の今なら「個人で問題を解決できる」と表現される能力こそが、彼をワールドクラスたらしめたのだった。

【最終年もほぼフルタイム出場】

 1994年7月の来日当時、浦和とは1995年まで契約を結んだ。その後、1996年までの1年契約を結び、さらにもう1度、延長している。

「妻もふたりの息子も、日本での生活をとても楽しんでいました。ただ、子どもたちの学校を考えると、1996年末のタイミングでドイツへ戻ることが、よりよい判断でした。ですが、私と家族は何度も相談をして、家族が先にドイツへ戻り、私はもう1年レッズでプレーすることにしたのです」

 Jリーグ4シーズン目となる1997年は、ホルガー・オジェックからホルスト・ケッペルへ指揮権が移った。ギドは開幕からフルタイム出場を続け、外国人の入れ替えや若手の登用など動きの激しいチームを支えた。

 最終節の残り数分で負傷交代を強いられ、全試合フルタイム出場はならなかったものの、その存在感は衰え知らず。1990年のイタリアワールドカップ決勝でディエゴ・マラドーナをマークし、旧西ドイツに3度目の優勝をもたらした姿のまま、彼は日本を去っていった。

 1999年春に、ドイツのカールスルーエを訪れた。スタジアムに隣接するイタリアンレストランに入ると、大きなパネルが目に止まった。

 歯を食いしばり、首にしわを寄せ、肩をいからせてドリブルをする。38歳になったギドだった。カールスルーエの選手として、彼は現役を続けていた。

「レッズとの契約を終えたあと、ブンデスリーガの7、8チームからオファーがありました。でも、すべて断りました。家族とゆっくり生活するつもりだったのです。でも、トーマス・ヘスラーに『半年だけチームを助けてくれないか』と言われて」

 ドイツ代表当時のチームメイトに強く復帰を要望され、ギドは再びスパイクの紐を結んだ。ところが、カールスルーエが2部に降格してしまったことで、さらに1シーズン現役を続けることになったのだった。

「コンディション的にはできる状態だったので、さらに契約を延長したのです。家族とゆっくり過ごすのが、また先延ばしになってしまいましたが......」と笑った。

【迷うことなく「日本で仕事をしたい」】

 彼自身の近況を聞いたあとは、自然と日本サッカーの話題になる。

 ギドはJリーグや日本代表について、いくつかの質問をしてきた。前年のフランスワールドカップについて聞くと、「ドイツ代表のことは話しませんよ」と、また笑った。1994年に続いてベスト8で敗れた母国に触れるのは、気が進まなかったのだろう。

「日本はいいプレーをしたけれど、勝つことを忘れていましたね。ワールドカップに初めて出場したのは、技術や戦術のレベルが高くなった証拠で、勝つために何が足りないのか、日本はあのワールドカップで初めて理解できたのだと思います。

 その意味でも、Jリーグにはまだまだ経験豊富な外国人選手や監督が必要でしょう。ワールドクラスの選手が少なくなっているのは、Jリーグにとって残念なことですね」

 そうやって言われたら、次に聞きたいことは決まっている。

 それならば、あなたが戻ってくるというのはどうですか?

 ギドは迷うことなく答える。今朝食べた食事について話すように、すらすらと。

「いつかまた日本で仕事をしたい、という希望はあります。指導者のライセンスが取れれば、監督もやりたいですね」

 その言葉が現実となったのは、レッズを離れてから7年後の2004年だ。

 就任1年目は田中マルクス闘莉王、三都主アレサンドロ、ブラジル人CBネネらが加入し、セカンドステージ優勝を成し遂げる。横浜F・マリノスとのチャンピオンシップは1対1のまま延長Vゴールに突入し、PK戦までもつれた末に敗退した。

 翌2005年は天皇杯を獲得する。浦和にとってはJリーグ発足後初の天皇杯制覇だった。リーグ戦でも最終節まで優勝を争った。

 機は熟した。2006年は開幕から勝ち点を重ね、初のJリーグ優勝へ導いた。優勝を決めたガンバ大阪とのホームゲームは、62,241人の大観衆が詰めかけた。この数字は今もってクラブ最多記録である。

「Jリーグのお荷物」とも呼ばれたチームを、助っ人外国人として上位へ押し上げた。監督としてチームに舞い戻り、クラブのショーケースに3つのタイトルを並べた。

 Jリーガーとしてプレーした助っ人外国人で優勝監督となったのは、ギド・ブッフバルトと、ドラガン・ストイコビッチのふたりだけである。

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