
【前編のあらすじ】日本統治下の台湾で「二等国民」としての差別を経験した周賢農さん(91)。終戦によって日本の支配から解放された喜びもつかの間、新たな支配者として中国大陸からやってきた国民党政府の腐敗ぶりに絶望する。「犬が去って、豚が来た」―。そんな言葉が流行るほど、台湾社会は混乱を極めていた。
(前編・後編のうち後編)
【写真を見る】なぜ少年は「共産主義」に憧れたのか?激動の時代を生き抜いた91歳の台湾人が今、日本人に伝えたいこと【後編】
国民党政府に絶望した少年が出会った「共産主義」国民党への失望が広がる中、台湾はさらに暗い時代に突入する。
1949年、中国大陸での中国共産党との内戦に破れた国民党のリーダー蒋介石が台湾に逃れてくると、台湾を統治するため約40年にわたり「戒厳令」を敷いた。言論や集会などの自由は奪われ、政府に逆らう思想は徹底的に弾圧された。特に、国民党と敵対する「共産主義」は最大のタブーだった。
戦後、医師になることを志していた周さん。しかし、中学2年生の時に出会ったひとりの教師の存在が、周さんの人生を一変させることになる。
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「ある教師がたまたま大陸から来た人で、彼のバックグラウンドは共産党だった。 普通の先生と違って、多方面な知識を教える先生だった。私は成績が良かったから、先生はよく家庭訪問に来てくれるようになってね、話しているうちに、思想的な面でも影響されたんです」
ある日、その教師は周さんにこう問いかけた。
「台湾で左翼組織をつくろうとしている。参加しないか?」
周さんは、迷わず「OK」と答えた。
「それだけで私の人生が変わってしまった」
なぜ少年は共産主義に惹かれたのだろうか。
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「日本統治時代は不平等、不公平だらけだった。だからこそ、共産主義はたくさんの民衆を助けられる、人々の生活水準を上げられると思った。“人民のための政府”は本当に素晴らしいなと思いました」
日本統治下の「不平等」、そして国民党の「腐敗」。二つの支配を経験した中学生の周さんの目には「平等」「人民のための政府」を掲げる共産主義が、希望の光に映った。
しかし、その光は長くは続かなかった。
周さんに共産主義を教えた教師は密告により逮捕。周さん自身も1950年、16歳のときに政治犯として捕えられ、8年半もの長きにわたる監獄生活を余儀なくされることになった。
「友達を売らなくて良かった」石を砕いて運び続ける過酷な監獄生活7年の刑期を終え、ようやく釈放される直前、看守が周さんにある取引を持ちかけた。
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「来週家に帰してやる。ただし条件がある。いま同じ部屋に監禁されている仲間で反政府的な言動をしたやつの名前を一人でもいいから教えろ。そうすればすぐに帰れる」
「私は一言『知らない』とだけ答えました。その言葉だけでさらに1年半、強制労働をさせられることになった。人生で一番きつい1年半でした」
「知らない」。この一言だけで裁判も経ず、小琉球という離島に送られた周さん。そこでは、浜辺で岩を砕いて運ぶという、何の意味もない、ただ政治犯を苦しめるための虐待を延々と強いられた。この作業が午前と午後に3回ずつ、毎日続いたという。
当時を振り返り、周さんは笑いながらこう話した。
「仲間に反政府的な人間がいないはずはないが、あの時誰かの名前を口にしていたら、仲間は死刑になっていたでしょう。そうなっていたら、私は一生涯後悔し、苦しんだはずです。本当に、友達を売らなくてよかった」
過酷な服役生活を経験してもなお、共産党思想を信じたことは間違っていなかったと語る周さん。ただ一つだけ後悔があるという。
「私が捕まったことで、母が心配のあまり脳卒中で倒れ、早くに亡くなってしまった。私は一人息子なのに、17歳で捕まって8年半も帰らなかった。心配をかけた。これが唯一の心残りです」
戒厳令下の台湾では、周さんのように「反政府思想」の持ち主とされた人々が次々と逮捕され、その数は数万人に上るとされている。
政府による徹底した弾圧や思想統制が行われたこの時代、国民党は自分たちに都合の良い歴史しか教えず、自由な歴史研究も許さなかった。
「私たちは戦勝国?それとも敗戦国?」語られなかった台湾の戦争1987年に戒厳令が解除され、1996年には初の総統直接選挙が行われるなど、台湾は民主化の道を歩み始めた。
戦後台湾史に詳しい国立台北教育大学の何義麟教授は、今ようやく「日本統治時代を知る世代の戦争体験を記録しよう」という動きが盛んになっていると語る。
「戦争体験者の多くは90歳近くになっていて、話を聞き取る最後のチャンスです。長い間台湾では歴史的な記憶が適切に記録されていなかったと感じています」
なぜ台湾では戦後、戦争体験が語られることがなかったのか。
「戦後、国民党支配による政治的な混乱が大きかったこと、また戒厳令下で台湾の人々は日本統治時代をどう過ごしたのかについて話すことができなかった。そのため、当時を知る親世代が歴史について口を閉ざし、子供たちに戦争体験を伝えようとしなかったのです」
「国民党政府は忘れてしまったのです。日本統治時代、台湾人は日本人であり、中国と戦っていた日本兵だったことを」
中国大陸で日本との戦争に勝利した国民党にとって「台湾人は日本人だった」という事実は、台湾を統治するうえで不都合なものだった。国民党にとって、日本はあくまでも敵でなくてはならない。そのため、国民党統治下では「日本人として暮らし、戦った台湾人」という事実は語られることがなかった。
日本として戦争に負けた台湾だが、その後、国民党率いる中華民国となったことで「戦勝国」になった。この「ねじれ」も歴史を語ることをさらに複雑にした。
「台湾は戦勝国だったのか、敗戦国だったのかということがまず問われますが、誰もはっきりとは言えません」
民主化によって「国民党の歴史観」から解き放たれた今、台湾では日本統治時代、そして国民党支配の時代という今まで語られなかった、抑圧され続けた「台湾の悲しみの歴史」を捉えなおそうという動きが広がっている。
激動の時代を生き抜いた周さんが、いまの日本人に伝えたいこと8年半にわたる服役後、紡績会社や映画会社などで持ち前の日本語能力を活かし働いたという周さん。引退した今でも、年末には日本の紅白歌合戦の演歌を楽しみ、文藝春秋など日本語の雑誌を読み続けていると笑顔で話す。
日本統治時代に生まれ、戦後の混乱した台湾を生き抜いてきた周さんが、いま日本人に伝えたいこととは。
「日本に対する印象は礼儀正しい、親切、それから清潔。
ただあの時の日本の帝国主義、あれはまずい。他国を侵略して、人を殺して、あんなことはもう二度とないようにして欲しい。そう思っています。
自国の利益のために他国を犠牲にするような極端なことは、絶対にするなと。もっと道徳を重んじ、人々の本当の幸せを考えてください、と伝えたいのです。
大切なのは、とにかく友好と平和。決して自分が強いから力を振りかざすのではなく、親しい隣人として、平和で平等な関係を築いていくことを、私は心から望んでいます」
日本人らしく振る舞うことを求められた日本統治時代。中国大陸からきた国民党に翻弄された時代。そして、長い戒厳令下で沈黙を強いられた時代。
周さんの人生は、まさに台湾が辿った激動の時代そのものだった。これまで自らの歴史を自由に語ることさえ許されなかった台湾は、今ようやく自分たちが歩んだ歴史を一歩ずつ見つめなおす旅を始めたのかもしれない。
日本と切ってもきれない歴史的結びつきをもつ台湾の人々が、自分たちの歴史をどう見つめ直すのか、私は隣人としてこれからもその歩みを見つめ続けたい。
JNN北京支局 室谷陽太
