
Jリーグ懐かしの助っ人外国人選手たち
【第17回】ジーニョ
(横浜フリューゲルス)
Jリーグ30数年の歩みは、「助っ人外国人」の歴史でもある。ある者はプロフェッショナリズムの伝道者として、ある者はタイトル獲得のキーマンとして、またある者は観衆を魅了するアーティストとして、Jリーグの競技力向上とサッカー文化の浸透に寄与した。Jリーグの歴史に刻印された外国人選手を、1993年の開幕当時から取材を続けている戸塚啓氏が紹介する。
第17回はジーニョを取り上げる。Jリーグ各クラブが大物外国人を獲得していた1990年代中期に、彼は現役ブラジル代表として横浜フリューゲルスに加入した。セザール・サンパイオ、エバイールとのブラジル人トリオは、Jリーグの歴史でも最高クラスと言っていい。その中心にいたのが、このスキルフルなレフティだった。
※ ※ ※ ※ ※
ジーニョが国際的に脚光を浴びたのは、1994年のアメリカワールドカップである。ブラジル代表の左サイドハーフとして全7試合にスタメン出場し、栄えあるワールドチャンピオンのメンバーとなった。
|  | 
|  | 
Jリーグ入りは翌1995年だ。アメリカワールドカップでは背番号9を着けたが、フリューゲルスでは10番を背負った。近代的なプレーメーカーの彼は、まぎれもなく10番タイプだった。
チームは転換期にあった。加茂周監督が1994年限りで退任し、外国人選手も入れ替わった。木村文治監督のもとでジーニョらの外国人をチームに融合させていくプロセスでは、多くの黒星を喫した。
ファーストステージは14チーム中13位に沈んだ。セカンドステージは11位だった。シーズン通算成績は13位だった。浦和レッズがホルガー・オジェックのもとで、名古屋グランパスエイトがアーセン・ベンゲルのもとで躍進を遂げたなかで、リーグ屈指の大型補強を敢行したフリューゲルスはスポットライトの外へ押し出された。
【ハイライトは鹿島との首位攻防戦】
「監督の木村さんは日本人で、コーチのゲルト・エンゲルスさんはドイツ人、僕らはブラジル人。互いにリスペクトをして、プロフェッショナルな仕事ができていたけれど、なかなかうまくいかなかったね」
そう語るジーニョは、「それまでブラジル人と仕事をしてきたから、僕自身が違う環境にすぐに適応できなかった、というところもあったかもしれない」と言い添える。チームにはブラジル人コーチのアントニオ・カルロス・ダ・シルバがいて、1995年途中から彼が監督となったものの、チームは浮上できなかった。
|  | 
|  | 
翌1996年は、ブラジル人のオタシリオが監督となる。ブラジル国内で十分な実績を持つ指揮官のもとで、ブラジル人トリオが輝く。ジーニョは3-4-2-1のシステムで前園真聖とともにシャドーのポジションに入り、左ウイングバックの三浦淳宏やセンターフォワードのエバイールとも絡んで破壊力抜群の攻撃を繰り広げた。山口素弘とサンパイオのダブルボランチがいることで、ジーニョらの攻撃力が存分に引き出されたところもあった。
チームは開幕から8連勝を飾り、首位を快走する。
ジーニョのハイライトは、5月18日の鹿島アントラーズ戦だ。国立競技場を舞台とした首位攻防戦である。
試合は53分に動く。鹿島が動かした。レオナルドのパスを受けたジョルジーニョが右サイドからクロスを入れる。ゴール前のマジーニョがヘディングシュートを叩き込んだ。ブラジル人ユニットが、その存在感を見せつけたシーンである。
ジーニョも黙っていない。74分だった。ペナルティエリア右外で直接FKを得ると、左足を振り抜く。4枚の壁を超えた一撃がゴール右上隅に突き刺さった。
|  | 
|  | 
コースもスピードもパーフェクトだった。どんなGKでも止めることはできなかっただろう。ジーニョ自身も「キャリアのなかでもっとも美しいゴールのひとつ」と振り返る。
【山口は元気か? 前園は?】
フリューゲルスは前半戦を首位で折り返すが、鹿島と名古屋が猛烈に追い上げてくる。最終節を前に鹿島の優勝が決定的となり、数字上は優勝の可能性を残すフリューゲルスは、最終節で浦和レッズに敗れた。
「最終的に3位に終わったけど、やれることはやったという気持ちだった。もちろん優勝したかったけど、フリューゲルスは優勝争いをすることが初めてだった。チームにとってはすごくいい経験になったと思う」
1997年は2ステージ制で開催され、ジーニョはファーストステージ16試合のうち15試合に出場した。チームは鹿島に次ぐ2位でフィニッシュする。
背番号10は7月16日の清水エスパルス戦を最後に、フリューゲルスを退団した。6月に30歳の誕生日を迎えた彼は、翌年に迫ったフランスワールドカップを見据えていた。
「ブラジル代表に呼ばれなくなっていたので、ブラジルに戻って代表監督のザガロに直接プレーを見てもらいたい、と考えたんだ。フリューゲルスを離れたくなったわけではないんだ。家族も日本での生活を気に入っていたし、横浜にはお気に入りのお店だってあった。そしてもちろん、チームメイトと精神的に結びつくことができていたから、チームを離れるのはとてもつらかった」
古巣のパルメイラスに帰還したジーニョは、1997年9月に2年ぶりの代表復帰を果たした。11月も招集されるが、当時のブラジルは歴代最高と言っていいほど戦力が充実していた。目標としていた1998年のフランスワールドカップを、ジーニョは観戦者のひとりとして迎えることとなった。
1999年秋に、ブラジルを訪れた。リベルタドーレスカップを制し、トヨタカップに出場するパルメイラスを訪ねた。
2年ぶりに見るジーニョは、同じく古巣に戻ったサンパイオや若き攻撃的MFアレックスらとともに南米王者の中盤に君臨していた。個別のインタビュー時間を与えられると、日本からの来訪者を心から歓迎してくれた。
「山口は元気か? 前園は? 三浦は? 楢崎(正剛)は?」
質問するのはこちらのはずなのに、質問責めを受けた。それぞれの近況を伝えると、目もとが緩む。かつてのチームメイトへの愛情は、物理的な距離が離れても薄れていなかった。
【僕の人生のなかでも特別なもの】
1999年元日の天皇杯決勝を最後に、フリューゲルスは消滅した。ジーニョは「もちろん、知っているよ」とうなずき、「本当に残念だよ」と両手を大きく広げた。手のひらで悲しみを受け止めているようだった。
「僕がホントにつらいのは......」と、ジーニョは続ける。
「選手やスタッフもそうだけど、サポーターも深い悲しみに包まれたと思う。フリューゲルスのサポーターにはとても、とても、とても多くの愛情をもらったから、彼らの悲しみには心が痛むんだ」
助っ人としてやってきた外国人選手は、いつか日本を離れる。それでも、母国に帰っても日本への思いを育む選手は多い。
ジーニョもそのひとりだ。「フリューゲルスで過ごした2年半は、僕の人生のなかでも特別なものだった」と、うれしそうに話した。サッカー選手としてのキャリアではなく「人生」と、ジーニョは語った。日本で過ごした日々は、心の一番奥深いところに刻まれているのだろう。



 スポーツ
スポーツ
