
ダイヤの原石の記憶〜プロ野球選手のアマチュア時代
第16回 菅野智之(オリオールズ)前編
誰よりも速いボールを投げたい──菅野智之は、ボールを握った小学1年生の頃からずっと、そう胸に描いてきた。
野球を始めたきっかけは1995年10月8日、伯父である原辰徳の引退試合を見たからだ。神奈川・相模原市の鶴の台小学校では、軟式の「東林ファルコンズ」に所属し、新町中学校ではエースとしてチームを県大会優勝に導いた。
【松坂大輔のような存在になりたい】
進んだ高校は、東海大相模。辰徳の父、つまり祖父の原貢が監督を務めて全国優勝を成し遂げ、辰徳も1年の夏から通算4回、甲子園に出場している。菅野は、祖父と伯父にゆかりの深いその強豪に、2005年に入学した。
「中学では軟式でしたから、高校に入って硬式でプレーするのが楽しかったですね。軟式球は軽いので、多少投げ方が悪くてもいいボールがいくんですが、硬式は重くて指先にかかる抵抗も違うし、きちんとした投げ方じゃないといけない。ただ、指にうまくかかればスピードも出るし、変化球もよく曲がるんです」
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じっくり話を聞いたのは、菅野が東海大4年時のドラフト前である。大学通算37勝4敗、防御率0.57という破格の超大物で、しかも原辰徳の甥とあって話題性にも事欠かない。当然取材が殺到していただろうが、こちらの話に真摯に、丁寧に答えてくれる。
「小学生だった1998年には、同じ神奈川の松坂(大輔)さんの横浜が、甲子園で春夏連覇するのをテレビで見ました。衝撃でしたね。ピッチャーをやる以上は、ああいう存在になりたい......。東林ファルコンズの練習は土日だけでしたが、野球が大好きなので、それじゃあ物足りなかった。放課後は校庭が開放されるので、毎日家に帰ると、バットとグラブを持ってまた学校に行き、やっぱり近所から集まってくるヤツらと野球をやっていました。壁にマトを書いたり、空き缶を目標にしてピッチング練習もしましたよ」
ただ、と続けた。
「じつは、(東海大相模に)入学する前から肩が痛くて......だましだましやっていたんですけど、6月くらいにはいよいよダメ。体もできていなかったし、そこから半年くらいはまったく投げませんでした。ノースローで、とにかく走って、また走って、という日々です。そうしている間に肩の痛みはなくなり、少しずつ投げ込みを始め、上級生たちのバッピ(打撃投手)を務めました。
すると......ずっと走っていたことで下半身がしっかりし、体の力がついたのか、それまでにない感覚で投げられたんです。以前はボールが抜けていたのに、体の前で押さえ込むことを体が覚えました。140キロを超えるようになったのは、この頃です。その時点では、真っすぐよりもどちらかというとスライダーのキレがよく、上級生によく『打てねぇよ』と言われましたよ。バッピだから、打たせなくてはならないんですが、こっちもアピールしなくちゃいけないから必死でした(笑)」
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田中広輔(のち広島)らがいて、2006年の選抜に出場する「上級生」たちを手こずらせるのだから、菅野の球は当時から光っていたのだろう。
【甲子園とは無縁の高校時代】
走ることとトレーニングに明け暮れた1年を過ごすと、そこからの成長は急カーブだった。打撃投手でのアピールが効いたのか、2年の春からベンチに入る。ただ、激戦区・神奈川では甲子園が遠い。救援登板した2年夏は、神奈川大会の決勝で選抜Vの横浜に大敗。
2年の秋は大会途中で捻挫し、県の準決勝で桐光学園に敗退。最後の3年夏も、春に敗れた横浜を準決勝で倒しながら(ちなみにこの時の横浜戦で菅野は、打者として振り逃げ3ランという珍プレーを演じている)、決勝でまたも桐光に敗れた。
つまり、甲子園とは縁がなかった。とはいえ3年春の県大会では、横浜を相手に4対6で敗れたが、16奪三振で完投。成田(千葉)と練習試合をすれば、唐川侑己(現ロッテ)と投げ合って19奪三振。球速も、最速148キロにまで達していたから、ドラフト候補として名前が挙がるのは当然だろう。だが菅野は、高校ではプロ志望届を出していない。
「実力はまだまだでしたから。3年の夏には、佐藤(由規/当時仙台育英、元ヤクルトなど)が甲子園で155キロをマークするんですが、いまの自分の実力では絶対に無理だと思っていたんです。それなのに、話題ばかり先行する感じで、なにかあるたびに伯父の話になるのがイヤでしたね」
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というわけで菅野は、東海大に進学することになる。やはり伯父と同じ進路だが、辰徳の甥としてではなく、とてつもない才能として菅野の名前が認識されるまで、それほど時間はかかっていない。
【大学の環境が自分に合っていた】
1年の春から抑えとしてリーグ戦に登板すると、秋からは先発となり5勝無敗。2年春も5勝をマークして、最優秀投手に輝いた。さらに夏には日米大学野球に出場し、東京ドームで153キロを計測......と、リーグ戦ごと、いや、試合ごとに菅野は、一回り大きくなっていく。結論から言うと......と、菅野が切り出した。
「大学という環境が、自分に合っていたと思うんです。高校では、自分で考えて練習をするといっても限度がありますが、大学では本人の主体性がすべて。手を抜こうと思えばいくらでも抜けるし、やろうと思えばいくらでも練習できる。そのために、『大学ではお手本になる先輩を見つけろ』と言われていたんですが、すばらしいお手本がいらっしゃった。入学したときの4年生で、部屋も同じだった中西(大器)さん(2010年まで新日本石油ENEOSでプレー)です。
とにかく、その姿勢がすごい。ランニングでは必ず先頭を走りますし、部屋にいても『一緒に走るか?』と誘ってくれる。声をかけてもらった以上は、こっちも手を抜けません。だから1年の時は、中西さんについていけば間違いない、中西さんの姿勢を真似ようと思っていました。中西さんが卒業してからも、自分が主戦となることがわかっていたので、自覚を持って同じ姿勢で練習してきました」
そして、少年期から「だれよりも速いボールを投げたい」と願っていた菅野に大きな刺激になったのは、2年の時に日本代表に選ばれたことだ。やはり代表に名を連ねた二神一人(法政大・元阪神)とのキャッチボールが衝撃だった。
2学年上。軽く投げているのに、手もとでバーンとくる伸びが怖いくらいだった。もっとも、日米野球のあとに開催されたアジア選手権では、菅野自身も抑え役としてベストナインを受賞しているのだが......。
つづく>>
