
ダイヤの原石の記憶〜プロ野球選手のアマチュア時代
第16回 菅野智之(オリオールズ)後編
「やはり、只者じゃないですよ」
そう語るのは、菅野智之が東海大に在籍していた当時の監督である横井人輝氏だ。
「ふつう、大学でこれだけ伸びるヤツはいません。だけど菅野は試合ごと、大会ごとに成長している。むろん本人の努力もありますが、それだけ観察力と創意工夫、頭のよさがあるんです。それと、偉大なおじいさん、伯父さんというプレッシャーを、自分のモチベーションに転化できていますね」
【リーグ戦通算37勝マーク】
菅野は2年秋には5勝を挙げてMVP。筑波大との試合では、延長11回参考ながら、20奪三振という連盟新記録を達成している。3年時は春秋通算11勝無敗で、秋のリーグ戦は圧巻の防御率0.14。
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大学選手権の準々決勝では、7回参考ながら同志社大をノーヒットノーランに抑え、慶応大との準決勝は17奪三振で完封。世界大学野球選手権では自己最速の157キロを計測した。
4年春には、前年秋から継続した連続無失点のリーグ記録を53回まで、連続自責0の記録を86回まで延ばした。さらに、シーズン5完封のリーグタイ記録。4年秋は5勝、MVPで有終を飾るなど、獲得したタイトルは数え切れない。通算37勝はリーグ歴代4位、14完封はリーグ新記録だ。
スピードは当然だが、高速スライダーに110キロ台のカーブも織り交ぜ、しかも正確無比な制球と冷静さがある。だから、ここぞという場面では三振を奪い、攻撃にリズムを呼びたければ打たせて取って流れをつかむピッチングもできる。
止まらない進化に、菅野本人も横井監督に質問されたことがあるそうだ。「どうしてそこまで伸びるんだ?」と。進化の根源にあるのは、速い球を投げたいというシンプルだが、だからこそ本能的な欲求か。
「たしかに、大学に入った頃は、ここまで来られるとは想像がつきませんでした。やはり、代表でプレーした経験というのが大きいです。同年代のトップのプレーを目の当たりにして、考え方を肌で感じる。実際に生で彼らのボールを見れば、自分はまだまだだと思い、チームに戻ったら『あの人たちを追い抜きたい』と感じながら練習するわけです。また自分は高校時代に甲子園に出場できなかったので、甲子園で活躍した選手には負けたくないという気持ちで励んできました。
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ベースとしては、体が強くなったことがありますね。高校時代、本格的な筋力トレーニングとは無縁だったせいか、1年秋のリーグ戦からちょっと腰痛に悩みました。そこで体のメカニズムを勉強し、体幹を鍛えるべきだと再認識して。それ以降は走り込み、ウエイト、さまざまなメニューに取り組みました。それも、むやみと高い負荷をかけるだけではなくて、すべてがピッチングにつながることを意識し、また上半身と下半身、意識的に右と左、バランスを均整に保つようにしたんです」
【甲子園で活躍した選手には負けたくない】
トレーニングの成果は如実に表われた。
「結果として、体重は入学時から15キロほど増えましたし、筋肉量を計ると僕は左右差がまったくなく、対称なんです。ほとんどの選手は、利き腕側の筋肉量が大きいものですが、このバランスのよさは投げていても実感します。それも、1年から意識して取り組んできた財産だと思いますね。
理想は、どれだけ力感なく投げられるか。いい状態で投げられた時は、チームメイトが言うんですよ。『今日は軽く投げていただろう?』って。自分ではそんなつもりはないんですが、周りからそう見えたら調子がいい時ですね。いまは、僕とキャッチボールした相手が『伸びが怖いくらいだ』と言ってくれます。僕が二神さんに感じたように......」
この取材をした2011年。菅野は、藤岡貴裕(東洋大・元ロッテなど)、野村祐輔(明治大・元広島)とともに大学BIG3として注目されたが、ドラフトで交渉権を獲得した日本ハムには入団せず、1年浪人。
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翌年、巨人の単独1位指名を受け、晴れて意中のチームに入団した。以来、多くの投手タイトルを獲得したNPBでは通算136勝。これは1年遅れながら、藤岡、野村ら、11年のドラフト入団組をはるかにしのぐ数字だ。
36歳になる今季から挑戦したメジャーでは、オリオールズで10勝。さすがに「誰よりも速いボール」というわけにはいかなかったが、オリオールズの「誰よりも多い」30先発を記録している。
