南海黄金期築いた広瀬叔功さん死去 2日夕方に体調急変も愛妻「人生で一番いい顔をしていました」

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2025年11月05日 22:12  日刊スポーツ

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日刊スポーツ

1964年日本シリーズ第4戦 南海・広瀬叔功の走塁

プロ野球南海のリードオフマンで歴代2位の596盗塁を記録し、南海監督を務めた広瀬叔功(ひろせ・よしのり)さん(日刊スポーツ評論家)が2日午後4時30分、心不全のため広島県の病院で死去した。89歳。広島県出身。葬儀・告別式は家族で既に執り行った。明るい性格で誰からも愛された人気者。昭和を彩った名プレーヤーがまた1人、鬼籍に入った。


天真らんまんで、だれからも親しまれた広瀬さんが天国に旅立った。亡くなった日は、昼食をとって会話もできたが、夕方にかけて体調が急変した。60年以上も連れ添った愛妻・祀子(としこ)さんは「突然でショックですが、でも人生で一番いい顔をしていました。どうせ自宅に戻ってこれないなら、苦しまずと思っていました。穏やかで、やさしい表情でした」と話した。


ナニワの名門、南海ホークスで、杉浦忠さん、野村克也さんら、同じスター選手と黄金期を築いた。通算2157安打を放ち、596盗塁は福本豊(阪急)に次ぐ歴代2位。俊足、巧打、強肩の持ち主で、3拍子そろった野性的なプレーヤーだった。


広島・大竹高から南海入りしたのは、テスト生といわれているが、名将・鶴岡一人監督の広島商の同級生からの強い推薦だった。高校時代は陸上部を掛け持ちした俊足で、進学先を早大、順大などに定めようとしたところを引き抜かれたのが、プロ野球人生の出発点だ。


歴代監督最多の勝利数(1773勝1140敗81分け)を誇る鶴岡監督にほれ込んだ広瀬さんは、最後まで「親分」といって忠誠を尽くした。“世界の福本”を上回る盗塁成功率だったが、本人はまったくそこにこだわりがなかった。


広瀬さんは「おれは数とか、記録のためには走らない。うちの親分が『ここで走ったら喜ぶだろうな』と思ったとき、親分のために走る」と語った。相手のクセを読むわけでなく、大きなリードをとってスタートを切った。それがチームの勝利につながった。


23年8月29日に慢性心不全で入院した当初から、地元の広島戦をテレビ観戦するなど、最後まで野球を愛した。4日に身内だけで火葬を終えた祀子さんは「体が強かったんだと思います。本当にしっかりしたお骨でした」と感嘆した様子だった。天性の名選手が力尽きた。【寺尾博和】

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