※画像はイメージです―[貧困東大生・布施川天馬]―
AIが人間の仕事を奪う。
さまざまな産業から人がいなくなり、機械に置き換えられていく。
かつては夢物語だった幻想も、ここ数年で一気に現実味を帯びてきました。
AIの波は学生にも容赦なく襲いかかります。先日、Xにて「必死に勉強してもAIの出した成果物のほうが出来がよい。勉強をする意味があるのだろうか」と嘆いた大学生のツイートが物議を醸しました。
大学でも、生成AIは問題になっています。
「AIが生成したであろうレポートであふれている」と嘆く大学教員の数は多い。私はこれまで「そんなものを使うのは、自分で書けない人なのだろう」と考えていましたが、今回東大生30人にインタビューしたところ、なんと東大ですら横行している現実が明らかになりました。
東大生の考える「AI利用の是非」について迫ります。
◆AI問題は東大ですら「あるある」に
今回話を聞いた東大生たちは、ほぼみんな一様に「大学の課題レポートをAIに任せる/任せる人を知っている」と回答しました。
「一年の時は真面目に出された課題やレポートを全部なけなしの頭で悩みながらこなしていたのですが、ある英語の授業ですべての課題とレポートをGPTに解かせた友人に成績ボロ負けした時はさすがに無力感がありました」(前期教養学部Tさん)
「評価軸が課題だけである場合は特に、AI全任せの方がいい成績が来てしまうことなんて往々にしてあります。評価軸をレポートではなく試験にする、出席も加味するなども方法の一つかもしれません」(前期教養学部Iさん)
「正直、研究室内でもAI利用が横行していて焦りを感じている。自分自身簡単なレポートはAIに任せてしまうが、『ChatGPTに聞いたんですが〜』などと話を始める人も東大内でよく見ますね。ファクトチェックしているのかな、と疑問が生じますが、怖くていつもスルーしています」(理系修士Sさん)
日本トップクラスの大学である東大生すら、AIに振り回されている現実。
「自分自身もAIを使って課題をこなしている」と答えた方も少なくない中、共通して持ち上がった解決策は「勉強させたいのなら、AIが利用できない環境に置くしかない」でした。
つまり、レポートを廃止して、実地でのペーパーテストによる評価に統一しなければ、究極的に勉強させることはできないというのです。
◆肩身が狭くなるのはどんな人?
元ツイートのように「勉強をする意味があるのか?」と問い直したくなりますが、これについても東大生たちは答えを持っていました。
「AIを使えるか否かは、一種の能力だろうから、それはそれで評価してもよいでしょう。これまで『努力』と称えられてきたものは価値を失い、AI時代に求められる新たな努力の形が出現してきたように感じます」(前期教養学部Hさん)
「今後AIが広まるほどに、『知識詰込み』の価値はなくなるでしょう。知識ばかり持っている人は、どんどん肩身が狭くなるはず。
ただ、博識さや教養とは、豊潤な知識の下に生まれるものでしょうし、知識が無駄というわけではない。あくまで『どう知識を使うか』など思考力や非認知能力的な側面が、強く求められるようになるのではないでしょうか」(前期教養学部Iさん)
「私は勉強もしつつAIも使いますが、友人たちを見ても、ある程度勉強している人ほど前提知識が多いからかAIの使い方もうまい。
AIに100%依存してしまうと『答えを見て丸写ししている人が表面だけ成績が良くなる』みたいな話になってしまいますから、自分で勉強しつつ、ツールとしてAIを使える人だけが生き残れるのでしょうね」(前期教養学部Nさん)
◆「AIで楽するだけ」の人も未来はない
確かに、AIは早い。異常な速度でそれなりの成果物を無数に生成してきます。
しかし、あくまで「それなり」でしかなく、「それなり」以上のものを生成するなら、使い手側に「それなり」以上のスキルが求められてしまう。
「それなり」から100点以上へつなげる際に要求される人間の能力、すなわち思考力とは、もともと頭の中に知識や考え方のスキームが身に着いていなければ発揮されません。
伸ばすにしても、ファクトチェックをするにしても、勉強をしてきた人間の「基礎教養」的な知が必要になります。
大学のレポートなど、定型的な課題をこなすならAIで十分でしょう。そうして、空いた時間を自分のやりたいことや、別の研究に充てるなら、有意義な使い方と言えます。
しかし、AI利用で楽をするだけならば、果たしてその人に未来などあるものでしょうか。
大学を就職予備校程度に考えて、「適当に遊んでさっさと出るだけ」と捉えるならば、AI利用が最適解。
ただ、4年間もの間、愚直に考えることをやめなかった人と、外付けの頭脳に思考を委託した人間とでは、前者の方が成長余地はあるはず。
◆AI時代に逆説的に浮き彫りになったこと
東大生が答えていたように、これからは「単純作業でAIに一切頼らない人」はもちろんのこと、「AIだけの人」も淘汰されていきます。
この先求められるのは、人間の有機的かつ取り留めのない突発的なノイズ交じりの自由かつ混沌とした思考力。
これを身に着けるためには、やっぱり勉強が必要なんです。
ただ、それは考え無しに知識を詰め込む「がり勉」ではなく、各物事の意味や関係性を整理しながら吸収する知的な学習。
AIは我々の暮らしを明らかに便利にしてくれました。ただ、これによって「思考力のある人」と「ない人」の差が一層はっきりしてしまったように感じます。その違いを生むのは「基礎教養の有無」。
ですが、書店で売っている「教養本」ではこの能力は身に着きません。目の前の問題との先の見えない対話、出口を模索する泥臭くて愚直な努力の積み重ねでこそ、身に着くものだからです。
「AIが考えてくれるAI時代」を生き抜くために、逆説的に思考の必要性が浮き彫りになってきた形。
シンギュラリティ(技術的特異点・AIが人間の知能を超えるとき)も近いと噂されています。
ただ、私には「もしかすると、シンギュラリティは『人間が考えなくなりすぎて引き起こされるのかも』とも思えてしまうのです。
<文/布施川天馬>
―[貧困東大生・布施川天馬]―
【布施川天馬】
1997年生まれ。世帯年収300万円台の家庭に生まれながらも、効率的な勉強法を自ら編み出し、東大合格を果たす。著書に最小限のコストで最大の成果を出すためのノウハウを体系化した著書『東大式節約勉強法』、膨大な範囲と量の受験勉強をする中で気がついた「コスパを極限まで高める時間の使い方」を解説した『東大式時間術』がある。株式会社カルペ・ディエムにて、講師として、お金と時間をかけない「省エネ」スタイルの勉強法を学生たちに伝えている。MENSA会員。(Xアカウント:@Temma_Fusegawa)