ゲリラ戦用の武器について説明する明治大学平和教育登戸研究所資料館の山田朗館長=13日、川崎市 太平洋戦争末期、日本は本土決戦をにらみ民間人を巻き込む戦闘準備を進めた。その際、ゲリラ戦用の武器を作製したのが旧陸軍の「登戸研究所」だ。研究所の建物の一部を引き継いだ川崎市の資料館では26日、研究所の当時の役割に焦点を当てた企画展を始める。担当者は「戦後80年を機に戦争の恐ろしさを再認識してほしい」と話す。
研究所は1919年発足の「陸軍科学研究所」が前身で、39年9月には「登戸出張所(通称・登戸研究所)」となった。戦時中に風船爆弾や生物兵器の開発を行うなど秘密戦の一端を担った。
太平洋戦争は41年に始まり緒戦は勝利したが、戦況は徐々に悪化。44年7月にはサイパンが陥落し、本土の大半が米国の爆撃圏内に入った。本土決戦が現実味を帯びる中、45年6月には義勇兵役法が施行され、女性も含む民間人が戦闘部隊に編入されることが定められた。
研究所ではゲリラ戦用の武器として、缶詰などの形をした小型爆弾や毒薬入りチョコレートが作製された。植物性樹脂と着火剤で作られた焼夷(しょうい)剤と呼ばれる約1メートルの棒状の放火道具も用意された。民間人はこれらを使い米兵を攻撃することが想定された。
企画展のタイトルは「その時、わたしたちは戦うことを命じられた」で、明治大学平和教育登戸研究所資料館(川崎市多摩区)で開かれる。民間人を巻き込む準備が進んだ経緯をパネルで説明する。米軍の空襲を避けるため、研究所の機能を大本営や皇居の移転先に計画された長野県のほか、福井・兵庫両県に分散疎開した状況も解説する。
山田朗館長(68)は「本土決戦は実際には起きず幻のように感じるかもしれないが、日本軍は女性も含めた民間人をゲリラ戦に巻き込む準備を本気でしていた」と強調。「戦争は一度始めると止められず、勝ち目がないのに突き進む。戦後80年を機に恐ろしさを認識してほしい」と訴える。
企画展は来年5月30日まで。入場無料。開館時間は午前10時〜午後4時。休館は日曜〜火曜のほか年末年始など。

ゲリラ戦用の武器について説明する明治大学平和教育登戸研究所資料館の山田朗館長=13日、川崎市

風船爆弾の模型などが展示された明治大学平和教育登戸研究所資料館=13日、川崎市