【平成の名力士列伝:常幸龍】最速の昇進街道を突き進んだ「記録男」 ケガとの戦いに挑み続けた不屈の魂と相撲愛

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2025年11月29日 07:00  webスポルティーバ

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連載・平成の名力士列伝64:常幸龍

平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、最速昇進記録の樹立とケガとの戦いでファンの記憶に残る常幸龍を紹介する。

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【入門からの連勝記録を打ち立て所要9場所で新入幕】

 少年時代から筋金入りの相撲ファンで、国技館で"出待ち"をしては力士にサインをお願いしたり、一緒の写真に納まったりもした。当時、ファンだった横綱・朝青龍から「うちの部屋に来い」と声を掛けられた時は、このうえなくうれしかったという。

 好きが高じて自身も小2から廻しを締めると、小4で全国大会ベスト8に食い込むほどの実力を示していたが、子どもの頃に憧れていたのは力士ではなく呼出しだった。

「中2までは体が小さく、なかなか勝てなかった。その代わり、町内会から借りてきた太鼓を家でよく叩いていました」

 相撲は中学卒業と同時に辞めるつもりでいたが、中3になって体が大きくなると勝てるようになり、全中大会でも個人3位に入賞するなど頭角を現わすと、名門・埼玉栄高からスカウトを受けた。進路に迷った時期もあったが、同校に進学した。

 強豪校の稽古とトレーニングで実力はさらに磨かれ、数々の全国タイトルを奪取。高3の時は主将を任され、高校総体ではチームを2年連続全国制覇に導いた。

 日大に進学すると1年生から主力として活躍。2年生の時には学生横綱にも輝いた。喜びもつかの間、その3カ月後に父・幸一さんが52歳の若さで急逝。一時は大学を中退して付け出しでの角界入りも考えたが、生前の父親がよく語っていた「自分が決めた道は最後まであきらめるな」という言葉に従い、大学生活を全う。高校時代から木瀬親方(元幕内・肥後ノ海)に声を掛けてもらっていた縁で大学卒業と同時に、当時、木瀬部屋の力士を預かっていた北の湖部屋の門を叩いた。

 大学時代は6つのタイトルを獲得するも、4年次はビッグタイトルとは無縁だったため、付け出し資格を得られず、佐久間山の四股名で前相撲からスタート。相撲エリートとしては"回り道"となったが、この逆境のおかげで相撲史にその名を刻み込むことになる。

 序ノ口、序二段、三段目の各場所を7戦全勝で1場所通過。序二段の優勝決定戦では惜しくも敗れたが、序ノ口、三段目は各段優勝を果たし、本場所デビューから4場所目の平成24(2012)年1月場所の番付は幕下15枚目。この場所も全勝すれば、年6場所制では史上最速、かつ史上初の無敗での関取昇進という大快挙とあって、大きな注目を浴びた。

 衆目が集まる土俵でも快調に白星を重ね、出だしから6連勝。あと1勝で大偉業達成だったが、最後の相撲は千昇の上手投げに屈し「緊張しないようにと思ったけど、体は正直ですね」と苦笑い。入門からの連勝記録は27でストップしたものの、現在も歴代1位の燦然と輝く記録を打ち立てた。自身が敗れたため、幕下は6勝1敗で8人が並んだが、トーナメント形式の優勝決定戦を制し、三段目に続く連覇を果たした。

 翌3月場所は幕下4枚目で5勝2敗とし、史上1位タイの前相撲から所要6場所で新十両に昇進。関取になったのを機に四股名を佐久間山から常幸龍に改名。「幸」は亡き父の名から取った。

 場所後、木瀬部屋が復興すると同部屋に移籍となり、十両は3場所で通過。「歴史を作りたいという思いがあった」という言葉どおり、琴欧洲や阿覧の11場所を抜く史上単独1位(当時)の所要9場所で新入幕となった。

【限界まで貫き続けた相撲道 引退後は相撲の魅力を世界に発信】

 右を差しての寄り、左からの強烈な上手投げを武器に、将来の大器にはさらなる期待がかかったが、幕内デビュー場所は「勝ちたい気持ちが強すぎて腰が引けた」と2日目から5連敗もあり、6勝9敗で入門以来初の負け越しで十両へ逆戻り。1場所で幕内に復帰するも場所前の稽古で左足首外側側副靭帯を断裂する重傷に見舞われ、痛み止めを打って強行出場を果たして9勝を挙げるも、場所後半は腰痛にも苦しめられた。

"記録男"は以後、ケガとの闘いに明け暮れることになり、番付は"頭打ち"状態。平成26(2014)年7月場所は前頭7枚目で10勝をマークし、番付運に恵まれて翌9月場所は一気に新小結に昇進するが、1場所で三役の座を明け渡し、その後も"低空飛行"が続いた。

 平成27(2015)年1月場所5日目は日大時代の後輩、遠藤に押し倒され、右膝前十字靭帯を損傷する重傷を負い休場も考えたが、「そんなことで凹んでいるんじゃない」と夫人に発破を掛けられると、7日目の横綱・日馬富士戦は痛み止めを打って土俵に上がった。横綱に攻め込まれたが土俵際、左足一本でこらえながら突き落とし。生涯唯一の金星を挙げた。

 奇しくもこの日が長男の1歳の誕生日。「いいプレゼントになった。内容はどうであれ、勝ってよかった」と生観戦していた夫人と子どもとともに家族で喜びを分かち合ったが、ケガは悪化の一途をたどっていく。

 平成28(2016)年3月場所からは十両で2場所連続の大敗。幕下への陥落が避けられなくなると「相撲が嫌いにならないためにも決断しました」と右膝の手術に踏みきった。2場所連続全休から土俵に復帰した同年11月場所は三段目で7戦全勝優勝を遂げ、13場所のブランクを経て平成30(2018)年9月場所、十両へ返り咲き。元三役が三段目から関取に復帰した初めてのケースとなった。

 しかし、関取の座もわずか3場所で陥落。その後も左足小指と左手の骨折、腰のヘルニアの悪化などで再び幕下に低迷。満身創痍ながらもできる限り稽古場に立ち続けたのは、後輩たちにその背中を見せ、無言のメッセージを送るためでもあった。

 令和2(2020)年11月場所、2度目の関取復帰を果たすも在位4場所で、三たび幕下へ。

「これ以上、相撲を続けると人工関節になると言われたので、今後のことも考えて」

 令和4(2022)年9月場所限りで引退。家族を養うためにもこれ以上、現役を続けるわけにはいかなかった。どんな苦境に立たされようが、大好きな相撲とは真摯に向き合い続けた。

 現在は土俵付きレストランの相撲ショーにも出演し、主に外国人観光客に相撲の魅力を発信している。将来的にはアマチュア相撲の指導者になる夢を持ち、息子が通う都内の相撲道場でも胸を出す。幼い頃から力士を引退してもなお変わらぬ相撲への愛情は、今や世界中の人々や未来ある子どもたちに向けられている。

【Profile】
常幸龍貴之(じょうこうりゅう・たかゆき)/昭和63(1988)年8月7日生まれ、東京都北区出身/本名:佐久間貴之/所属:北の湖部屋→木瀬部屋/しこ名履歴:佐久間山→常幸龍/初土俵:平成23(2011)年5月技量審査場所/引退場所:令和4(2022)年9月場所/最高位:小結

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