
錦織圭という奇跡【第4回】
松岡修造の視点(4)
◆松岡修造の視点(1)>>「錦織圭選手の体に入ってみたい!」
◆松岡修造の視点(2)>>「松山英樹さんや羽生結弦さんからも感じた」
◆松岡修造の視点(3)>>「気がつけばナダルやジョコビッチまでもが...」
「なんて楽しそうに、テニスをする子なんだ」
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錦織圭について語る時、松岡修造氏は頻繁に「楽しい」「ボールで遊んでいるよう」という言葉を用いる。それは11歳の少年の頃も、そして今も変わらず、松岡氏が「錦織圭のテニス」に抱く印象だという。
ただ、話を先に進める前に、「楽しい」の定義について、考える必要があるだろう。
もう10年ほど前の話になるが、こんなことがあった。錦織に「テニスは楽しいですか?」と問うと、彼は「うーん」と小さくうなると、「楽しそうにテニスしてるねって言われること多いんですが、楽しいことばかりではないので」と、ささやかに抗議するように言ったのだ。
「楽しいは楽しいですが、それとは別のところで戦っている自分もいるので。プレッシャーだったり、身体の痛みだったり。勝つために努力をしているけれど、うまくいかなかったりで、つらいときのほうが多い。楽しいは楽しいけれど、それだけでは、難しいですね」
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この錦織の言葉を、松岡氏に伝えてみた。すると今度は松岡氏が「うーん」と小さくうなり、こう続けた。
「その錦織選手の感じ方は、定義としては『楽しい』で合っているような気がします。なぜならスポーツの本当の楽しさは、つらさだから。苦しさだから。もし簡単にクリアできるゲームだとしたら、それは楽しくはないんです。
アスリートが一番楽しいと思う瞬間というのは、大接戦の試合で、崖っぷちに立たされた時。つらいし、苦しいんですが、これが楽しいんですよ。錦織選手は、その苦しさを楽しむ力を持っていると思います」
錦織が苦境をも楽しむ能力を持つ証左として、松岡氏は「リラックス」や「スーパーゾーン」という言葉も用いる。緊迫の場面でも硬さが見られず、むしろ驚異の集中力でプレーの質を上げる。
そんな錦織の特性は、ATPが定める「プレッシャー耐性」という指数にも表れる。これは、ブレークポイント阻止率や最終セット勝率などの係数から算出されるもので、錦織は現在、全現役選手中4位。錦織がいかに苦境に強いかは、数字でも証明されている。
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【「がんばれ」の言葉は必要ない】
「こういう結果が出ているのは、錦織選手が本当の意味で『テニス』をしているからだと思います」と松岡氏は言う。
「試合のなかで適応や応用をしながら、ボールを通じて相手と読み合いや駆け引きをしている。頭のなかで思い描く展開を、うまく体で表現しながら戦っているんでしょうね。
ですから、少し変な言い方になりますが、彼には『がんばれ』のような言葉は必要ないのでは、と思います。がんばればがんばるほど力が入ってしまうので、下手になる。楽しければ楽しいほど、どれほど体力がきつかったとしても、きっと彼は力が出せる。そういう次元のスポーツ選手だと、僕はとらえています」
「本当の意味でテニスを楽しむ」錦織の精神性こそが、彼を「スーパーゾーン」へと導くトリガーなのだろう。
ただ、「ビッグ4」らトップ中のトップ選手たちは、それを止める術(すべ)を持つ。特にノバク・ジョコビッチ(セルビア)は、審判へのクレームや観客をあおる行為など、時にはコート外の要因も巧みに用いて流れを変える。松岡氏は「それもテニスの強さのひとつ」と明言する。そして、そのようなある種のずる賢さが、錦織にはなかったとも。
「僕が言いたいのは、そこです。錦織選手はすごく、スポーツに対してピュアなんです。だから、純粋なテニス以外の要素を持ち込んでまで勝とうとは思わない。それは自分のテニスではない、という結論に辿り着くのではないでしょうか。
ラファエル・ナダル(スペイン)やロジャー・フェデラー(スイス)らもすごくテニスへのピュアな感覚の持ち主ですが、それでも勝つことに関しての選択肢は、いろいろ持っていたと思います。でも錦織選手は、どんなことをしてでも勝ちたいとは思わない。ブラッド・ギルバート(アメリカ)の『ウイニング・アグリー』的な感覚を、錦織選手は持ってなかったのだと思います」
ブラッド・ギルバートは、1980年代から1990年代にかけて活躍し、世界4位に達した往年のトッププレーヤー。際立った武器はなく、それでも相手が嫌がる独特のリズムと戦略性、そして「メンタルゲーム」で勝ってきた選手である。そんな彼のテニス哲学が『ウイニング・アグリー(=醜く勝つ)』であり、同名の著書はテニス教本としてベストセラーになった。
指導者としてはアンドレ・アガシ(アメリカ)やアンディ・ロディック(アメリカ)らを世界1位に導き、名コーチの誉れも高いギルバート。そんな彼が2011年、錦織のツアーコーチに就任した。そしてその年、錦織はランキング98位から25位へと大躍進する。
ただ、ギルバートとの契約はこの1年で終了した。
【これからのアスリート像を体現】
「ギルバートが錦織選手のコーチになった時、僕はすごくチャンスだと思ったんです。なぜなら、彼に足りなかった意地汚さや泥臭さを、いよいよ身につけられると思ったから。でも、そこはやはり、錦織選手のテニス観には合わなかったんでしょうね。
実はギルバートが錦織選手のコーチだった時、グランドスラム会場などで顔を合わせるたびに、『修造、ちょっと圭をどうにかしてくれ。テニスがきれいすぎる』と言ってきたんです。
もっと意地汚く勝たなくてはいけない。『エア・ケイ』なんてやるな。どんなにきれいに決めようが、泥臭く決めようが、1ポイントは1ポイントだ。そのことを圭に説得してくれないか、と言うわけです。もちろん、ギルバートの言うこともわかりますが、それは僕の役割ではないからと断りました。
もしギルバートの言うことに従っていたら、錦織選手はグランドスラムで優勝したかもしれない。それは、わかりません。でも、それをやっていたら、今の錦織圭はいないのでは、とも思います」
2024年12月29日に、錦織圭は35歳を迎えた。ここ数年は、ケガでツアーを離脱する時間も長い。それでも彼が、今なおコートへの情熱を抱き続けているのは、少年時代から変わらぬ「テニスへのピュアな思い」が、核としてランランと光を放っているからだろう。
自身は30歳で現役生活に幕を下ろした松岡氏は、今の錦織の姿に敬意を抱き、同時に、希望を見いだしているという。
「錦織圭選手が35歳になっても現役を続けている姿を見て、心から尊敬しています。そして、どこか微笑ましく感じている自分もいます。正直、10年前にはここまで長くプレーを続けている彼の姿は想像していませんでした。
錦織選手が今も第一線にいる最大の理由は、何よりも彼自身がテニスを心から愛していること。若い選手たちと戦うことを楽しみにしているし、自分はまだ進化できると信じている。その思いが、彼をコートに立たせ続けているのだと思います。
錦織選手の姿は、まさにこれからのアスリート像を体現している。僕にとっても、後輩たちにとっても、まさに希望そのものです」
今の錦織圭は、勝敗という結果からも、どこか自由だ。テニスというスポーツの精髄を知り、真の意味で「楽しむ」その姿こそが、あらゆるアスリートにとって希望なのだ。
(つづく)
◆松岡修造の視点(5)>>現役を続けるモチベーションは「とてもシンプルな理由」
【profile】
松岡修造(まつおか・しゅうぞう)
1967年11月6日生まれ、東京都出身。姉の影響で10歳から本格的にテニスを始め、中学2年で全国中学生選手権優勝。福岡・柳川高時代にインターハイ3冠を達成し、その後アメリカへ渡る。1986年にプロ転向し、1992年のソウルオープンで日本人初のATPツアーシングルス優勝。1995年のウインブルドンでは日本人62年ぶりのベスト8。オリンピックにはソウル、バルセロナ、アトランタと3大会出場。1998年に30歳で現役を引退。現在は日本テニス協会理事兼強化育成副本部長を務めながらスポーツキャスターとして活躍。ランキング最高位シングルス46位。身長188cm。

