ラグビー「雪の早明戦」はNo.8で勝利に貢献 名将・清宮克幸の土台は早稲田大時代に確立された

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2025年12月03日 07:10  webスポルティーバ

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語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第38回】清宮克幸
(茨田高→早稲田大→サントリー)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 連載38回目は、日本ラグビー界に「清宮イズム」という独自のスタイルで旋風を吹き込んだ清宮克幸(きよみや・かつゆき)を取り上げたい。今ではプロ野球選手・清宮幸太郎(日本ハム/2017年ドラフト1位)の父としても知られている。

 指揮官として、早稲田大監督時代は5年間で3度大学日本一に輝き、古巣のサントリー(現・東京サンゴリアス)ではトップリーグ制覇、さらにヤマハ発動機(現・静岡ブルーレヴズ)をクラブ初の日本一に導いた。その手腕は誰もが認めるところだが、彼を語るうえで欠かせないのは、指導者としての才覚を選手時代から発揮していた「異端のNo.8」としての軌跡だろう。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

   ※   ※   ※   ※   ※

 ラグビーキャリアは異色だ。大阪市の福島区で生まれた清宮は、小学校で野球、中学校でサッカー部に所属し、その頃からキャプテンというポジションに立っていた。

 体は大きく、気性も激しく、中学時代は剃り込みヘアと長ラン(丈を長く仕上げた変形学生服)姿。まさしく「番長」的な存在で、他校の番長と喧嘩したこともあったという。

 そんな彼がラグビーの道に進んだのは、中学校の先生に勧められたのがひとつのきっかけ。さらにはラグビー部を舞台にしたテレビドラマ『われら青春!』からも影響を受け、高校に入学したら楕円球を追いかけようと心に決めた。

 進学先は私立のラグビー強豪校ではなく、公立の茨田(まった)高校。当時の大阪は北野高や天王寺高など公立高も強い時代で、茨田高も清宮が入学する前に「花園」全国高校ラグビー大会に2度出場していた勢いのあるチームだった。

【「雪の早明戦」にNo.8で先発】

 清宮が入学した際、部員はほとんどラグビー経験者。チームを率いる吉岡隆監督も自主性を重んじる指導者で、練習時間も短かった。初心者だった清宮はPRやWTBなどを経験したあとにバックロー(FLとNo.8の総称)でプレーすると、吉岡監督は彼のポテンシャルを見抜き、1年生から起用されることになった。

 高校2年では大阪府選抜に選ばれて国体を経験し、高校3年時にはキャプテンとして花園に出場(3回戦で神奈川・相模台工に敗れる)。高校日本代表にも選ばれ、アイルランド遠征ではキャプテンを務めた。

 高校卒業後は、鳴り物入りで早稲田大の教育学部・体育学専修に入学。すぐにレギュラーの座をつかむが、大学1年時は関東対抗戦の開幕戦でひざのじん帯を傷め、そのシーズンはわずか3試合に終わった。ただ、早稲田大に入ったことで「素材に劣るものが、いかにして恵まれた体格の選手に勝つか」と考えるようになり、のちの「清宮哲学」の土台を作ることにつながった。

 一気にスターダムにのし上がったのは大学2年時だ。木本建治監督にPRへの転向を命じられるも、コンディションが整った夏合宿から再びNo.8に復帰。身長180cmを超える体躯を活かし、関東対抗戦では1試合を除いて先発して「アカクロのNo.8」として大暴れした。

 1987年12月6日、今も名勝負と語り継がれる「雪の早明戦」にもNo.8で先発。明治大の最後の猛攻にも耐えて、早稲田大の勝利(10-7)に貢献した。

 勢いに乗った早稲田大は、大学選手権の決勝で同志社大を10-7で下し、さらに日本選手権でも東芝府中(現・ブレイブルーパス東京)を22-16で破って4度目の日本一に輝く。この優勝以降、大学生チームは日本一になっていない。

 しかし、優勝候補の筆頭だった大学3年時、清宮は涙を流す。早明戦では15-16と惜敗し、大学選手権では同志社大に17-27と敗北。正月越えすらできない屈辱を味わった。

【不思議と代表に縁がなかった】

 シーズンが終わって新チームとなり、清宮は当然のごとくキャプテンになった。大学3年時の悔しさを晴らすため、清宮キャプテンは改革を断行する。

 まずは、プレハブのウェイトトレーニング場や坂路を新設。フィジカル強化が急務と考え、土台となる基礎作りに着手した。さらに、OB会の伝手(つて)を頼ってニュージーランド代表のレジェンドコーチを招聘。ニュージーランドラグビーフットボール協会の会長を務めたジョン・グレアムと、オールブラックスを率いて2011年ラグビーワールドカップを制したグラハム・ヘンリーの指導を受け、さらなるチーム強化を図った。

 清宮キャプテン率いる大学4年時のチームは、錚々たるメンバーが揃った。LO後藤禎和(4年)、SH堀越正巳(3年)、FB今泉清(3年)、FL相良南海夫(2年)と、いずれのポジションも大学屈指レベル。充実したトレーニングと最新のラグビー指導を受けた彼らは、前年度の二の舞を踏むことはなかった。

 早明戦では相手の得意なFW戦も制して28-15で勝利。関東対抗戦を全勝優勝で飾り、その勢いのまま日体大を45-14で下して大学選手権も制覇した。

 早稲田大時代に強烈なインパクトを残し、その存在は「茨田の奇跡」とも呼ばれた。しかしサントリー入社後も、清宮は不思議と代表キャップに縁がなかった。

 社会人1年目の1990年にはU23日本代表に選ばれ、キャプテンとしてアメリカ代表を撃破。1991年には代表に準じる日本A代表の一員としてジンバブエ遠征に参加し、翌年は日本選抜のキャプテンとしてオックスフォード大に勝利するも、フル代表には選出されなかった。

 サントリーでは社会人3年目の1992年、自ら手を挙げてキャプテンに就任。当時は仕事を終えてから練習を始める時代で、ルーキーイヤーは入れ替え戦にまわる苦境にも立たされた。しかし2年目からは外部コーチやトレーナーを招聘し、清宮を中心にチーム強化に着手。3年目には全国社会人大会準々決勝で当時6連覇中だった神戸製鋼に一時逆転するなど追い詰めた。

【ファンは「清宮節」を心待ち】

 清宮は3年間でキャプテンを退くが、その撒いた種は翌年ようやく実を結ぶ。土田雅人(現・ラグビー協会会長)が監督になった1995年度、サントリーは全国社会人大会と日本選手権で優勝を果たしたのである。

 清宮はサントリーで11年間プレーし、トップリーグがスタートする前の2001年に現役を引退。すぐさま早稲田大の監督に就任し、「熱いチームを作って、競争を激しく、独自性を持って、熱い、強い言葉でチームを率いる」という信条の下、名将の地位を固めていった。

 現在、清宮は日本ラグビー協会副会長という立場にいる。しかしまた、現場で指導する姿と「清宮節」を心待ちにするラグビーファンは多いはずだ。

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