
東京ヴェルディ・アカデミーの実態
〜プロで戦える選手が育つわけ(連載◆第19回)
Jリーグ発足以前から、プロで活躍する選手たちを次々に輩出してきた東京ヴェルディの育成組織。この連載では、その育成の秘密に迫っていく――。
第18回◆東京ヴェルディユースの11年前の苦境を振り返る>>
Jリーグが誕生する以前、まだ読売クラブの名で知られていた頃から、東京ヴェルディのユースチームはクラブユースを代表する存在だった。
2014年と言えば、すでにJリーグ創設から20年以上が経過し、クラブユースの勢力図にも変化が見られていたとはいえ、ヴェルディユースが高円宮杯U−18プレミアリーグ(以下、プレミアリーグ)から陥落するとなれば、ちょっとした"事件"である。
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当時ヴェルディユースのキャプテンを務めていた中野雅臣曰く、「(当時の選手たちは)そもそも勝って当たり前のクラブだったので、直接何かを言われるわけではないけど、1敗するだけでプレッシャーは常に感じながらやっていた」ことも、プレミアリーグ第8節からのまさかの8連敗の遠因だったかもしれない。
「危機感はすごくありました」
そう語る中野は、「自分だけじゃなくて、みんなそうだったと思いますけど、そこの(プレッシャーに打ち勝つ)メンタリティみたいなものがちょっと足りなかったなって思います」と続ける。
ヴェルディユースがプレミアリーグを制したのは、そのわずか2年前。中野たちの2学年上の先輩たちが最上級生だったシーズンのことだ。
当時、高校1年生だった中野たちも、必ず先輩たちの試合は見に行っていた。
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「自分の代の小田島(怜)が、2個上の(先輩にまじって)試合に出ていたんで、それも刺激になっていました」
全国各地から選りすぐりのチームが集まるリーグでありながら、まさに無敵の強さを見せる先輩たちに「憧れていました」と中野。「2個上(のチーム)は無敗で優勝していましたからね。すごかったです」。
自分が所属するクラブのことながら、中野はその強さをあらためて実感していた。
中野が自ら望んでヴェルディの門を叩いたのは、さらにさかのぼること4年前のことだ。「最初はヴェルディジュニアの監督に、『ちょっと練習に来てみないか』という感じで声をかけていただいたのがスタート」だった。
小学6年生だった中野は、よみうりランドにおもむき、中学1年生のチーム練習に参加。「高木大輔(現FC琉球)くんとか、1個上の練習にまざってやりました」。
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埼玉県与野市(現さいたま市)出身の中野は当時、地元のクラブチーム、ネオスFCに所属していた。
「たまたま埼玉県のなかでは成績がいいほうだったので、ちょっと注目されるクラブではありました。いろんな大会に(Jクラブのアカデミーの)スカウトが見に来ている、みたいな話は聞いていました」
中野は、いわば注目の小学生選手だったわけだが、進路を選ぶにあたっては、関東にある5クラブのアカデミーで練習参加。そこには地元の浦和レッズや大宮アルディージャも含まれていたが、最終的に選んだのがヴェルディだった。
理由は極めてシンプル。「一番楽しかったのがヴェルディでした。もう純粋にサッカーが楽しい。それだけで決めました」。
中野が笑顔で述懐する。
「自分とは全然比べものにならないくらいうまい選手がいて、もう単純にうまい選手がいっぱいいたっていうのと、環境ですかね。僕は左利きなんですけど、そのお手本になる選手がたくさんいたっていうのにもすごくワクワクして、ここなら自分が成長できそうだなって思いました」
その憧れのレフティのひとりが、「プロにはなっていないんですけど、山口陽一朗選手ですね」。ヴェルディ行きを決断させたと言っても大げさではない山口について、中野は「自分とはタイプが全然違うんですけど、プレーするときの体の向きとか、目線とか、ボールの置きどころとか、めっちゃ勉強になる選手でした」と振り返る。
「その他にも、歳はもっと上(中野の4歳上)ですけど、小林祐希選手もいたりして、同じ左利きでも違う感性を持った選手がいて、すごく楽しい、うれしいっていう気持ちになったのが決め手でした」
中野少年は、たちまちヴェルディに魅了された。
(文中敬称略/つづく)
