
Why JAPAN? 私が日本でプレーする理由
横浜F・マリノス ジャン・クルード インタビュー 第2回
今のJリーグでは、さまざまな国からやってきた多くの外国籍選手がプレーしている。彼らはなぜ、日本を選んだのか。そしてこの国で暮らしてみて、ピッチの内外でどんなことを感じているのか。今回は横浜F・マリノスのトーゴ代表MFジャン・クルードに、日本にたどり着いた経緯や、この国の印象を聞いた。
【ドバイでラモン・ディアスに師事】
プロサッカー選手になる夢を打ち砕かれ、希望を失いかけていたジャン・クルードに救いの手を差し伸べたのは、ドバイの名門アル・ナスルSCだった。
アラブ首長国連邦(UAE)では、移民者が5年以上の継続的な在住によってパスポートを取得できるため、自国代表の強化策の一環として帰化選手の活用が積極的に進められていた。UAEリーグでは外国籍のプロ選手は5人までしか登録できないが、外国籍でも23歳以下であればプロ選手として扱われないため、外国籍枠の影響を受けずにプレーできる。
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この独特なU-23ルールはUAEサッカー界の帰化推進策とも深く結びついており、同国はアフリカや南米などから優秀な10代の選手を大量に集めている。アル・ナスルはジャンの将来的なUAEへの帰化も見越して、その潜在能力を高く評価していたのだろう。
ドバイ有数のアカデミーで順調に育ったトーゴ出身の青年は、18歳になった直後の2021年12月末からトップチームでの出場機会を得るようになった。抜てきしたのは、現役時代に横浜マリノス(現横浜F・マリノス)でもプレーした名伯楽、ラモン・ディアス監督だった。
「ラモン・ディアス監督が就任する前には、クロアチア人のクロノスラフ・ユルチッチという人物が監督を務めていた。彼が僕のことをアル・ナスルの未来だと高く評価していたから、ディアス監督が来てからも物事はスムーズに進んだ。僕のトレーニングに臨む姿勢や態度を、とても気に入ってくれていたよ」
最年少の選手としてトップチームの練習に参加するようになったジャンは、元スペイン代表のアルバロ・ネグレドやチリ代表歴を持っていた同じポジションの先輩エステバン・パヴェスらから影響を受けて、メキメキと頭角を現していった。
【「ヨーロッパでプレーする夢を大事に」】
アル・ナスルでは絶対的な主力ではなかったが、2シーズンにわたってUAE1部リーグを戦ったことで、2023年6月にトーゴ代表から初めて声がかかった。ここでまたしてもジャンは、国籍の問題に直面する。
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16歳からUAEに住んでいたため、まもなく同国のパスポートを取得できる条件の「5年在住歴」をクリアできる。新たな国籍を手に入れれば、パリ五輪出場を目指すU-23 UAE代表に入って2024年の前半に開催されるアジアU-23選手権に出場する道も開かれていた。
だが、ジャンはUAE国籍の取得を見送った。それはいったい、なぜだったのだろうか。
「UAEのパスポートを手にするチャンスがあることはわかっていたし、『それを持ってヨーロッパに行ける』とも考えていた。ヨーロッパへ行き、より高いレベルのリーグで自分の名前を売ることが、僕の目標のひとつでもあったからね。
僕が初めてトーゴ代表から招集された時、UAE側はU-23代表入りを打診してくれて、一時期はトーゴを選ぶかUAEを選ぶか五分五分だった。ただ、UAEのパスポートを持っていてもヨーロッパに行ける保証はないし、むしろ自分の未来を制限してしまう可能性があるのではないかとも感じた。
難しい決断だったけれど、僕はやっぱりヨーロッパでプレーするという夢を大事にしたかった。それを実現するにあたって、制約が生まれるならUAE国籍は取得しないことにした」
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ジャンは2023年6月14日に行われたレソト代表との国際親善試合で、トーゴ代表デビューを飾った。その4日後にはアフリカ・ネーションズカップ予選のエスワティニ代表戦にも途中出場。もしレソトとの親善試合のみの出場であれば将来的なUAE代表への鞍替えも可能だったが、FIFAの定めたルールにより、原則としてA代表で公式戦に出場した選手は他国の代表に切り替えることはできないため、エスワティニ戦への出場をもってジャンのUAE代表入りへの道は断たれた。
すると今度はアル・ナスルでの将来に暗雲が立ち込めた。同じように帰化とUAE代表入りを前提に10代でリクルートされてきた有望株が列をなしてチャンスをうかがっている状況で、トーゴ代表を選択した者に居場所はなくなったのだ。
構想外となったジャンが継続的な出場機会を得るには新天地を求めるほかなく、夏の移籍市場の閉幕が迫っていた2023年9月1日にウクライナ1部のゾリャ・ルハンシクへ期限付き移籍することとなった。
【ウクライナでは試合中に空襲警報が】
ウクライナがロシアと戦争状態にあることは、もちろんわかっていた。一方でジャンにとっては「ヨーロッパでプレーする」という夢を叶え、ステップアップを狙う大きなチャンスでもあった。ところが現地で待っていたのは、想定していたよりもはるかに過酷な環境だった。
「安心してプレーすることなんてできなかった。ピッチに立つたびにいろいろなことを考えてしまった。時にはトレーニング中でも考え続け、眠ろうとしても考えごとが頭の中をぐるぐると回って眠れないこともあった。家族は僕のことをすごく心配していた。今だから『いい経験だった』と言えるけれど、当時はすごく怖かったよ」
ジャンはウクライナに渡って最初の週の試合前に起きた「最も恐ろしい体験」のことを、今でも鮮明に憶えている。
「ゾリャに加入した直後のことだ。僕たちがアウェーゲームのために遠征した街は、ウクライナとロシアの国境に近かった。僕がホテルの部屋で家族と電話で話していたら突然、空襲警報が鳴り始め、全員下の階へ避難するように指示された。
その通りに避難すると、そこには安全に隠れるためのシェルターがあったんだけれど、電波がなくて家族と連絡を取れなくなってしまった。結局、その状態のままそこで6時間過ごした。自分にとっては移籍して最初の試合だったから、本当に怖かった。なぜ自分がこんな状況に置かれているのか不思議に思ったくらいだ。
僕は避難する時にパナマ人のチームメイトで、仲のよかったエドゥアルド・ゲレーロを大声で呼びにいったんだけれど、すでにウクライナで半年プレーしていた彼は『わざわざ呼びにこないでくれ。目が覚めてお前を見るよりも、寝ているまま死んだほうがマシだ』と冗談を言っていた。彼にとっては日常になっていたのかもしれないけれど、僕にとってはウクライナに来て初めての出来事だから、人生で最もクレイジーな体験だった」
ウクライナでは試合中に空襲警報が鳴ることも珍しくなく、試合終了直前に室内へ避難して1時間くらい待機したのちに再開になったこともあったという。
ゾリャが本拠地を置くルハンシク州はロシアに占領されており、クラブは首都キーウに仮の拠点を設けて活動していた。選手たちは全員が1棟のアパートで共同生活を送っていた。近くに家族が住んでいれば、練習後に会いにいくことも可能だが、トーゴ出身のジャンはそうもいかない。
命の危険と隣り合わせの日々は、肉体的にも精神的にも過酷なもので、リーグ戦11試合に出場したジャンは1年でウクライナから去る決断を下した。そして、次にたどり着いたのは未知の国、日本だった。
(つづく)
第1回 >>> Jリーグ史上初のトーゴ人選手、ジャン・クルードのタフな少年時代「サッカーで生きていく未来なんて...」
Jean Claude ジャン・クルード
2003年12月14日生まれ、トーゴ・ロメ出身。14歳で出場したU-17アフリカ・ネーションズカップで注目され、UAEのアル・ナスルのユースに引き抜かれ、そこでプロに。帰化を断ったことでファーストチームに居場所を失い、2023年9月からウクライナのゾリャ・ルハンシクへ期限付き移籍。翌2024年7月に横浜F・マリノスに完全移籍で加入し、驚異的なスピードや鋭い寄せで中盤を引き締めている。
