【長嶋茂雄が見たかった。】立教大学時代の後輩が証言する、長嶋茂雄の"ミスタープロ野球"以前

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2025年12月10日 07:00  webスポルティーバ

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 今年6月に逝去した長嶋茂雄氏。お別れの会が開催された先月11月21日に、『週プレNEWS』にて昨年8月より配信した連載「長嶋茂雄は何がすごかったのか?」をまとめた書籍『長嶋茂雄が見たかった。』が刊行された。

 生で長嶋氏のプレーを見ることがかなわなかった、立教大学野球部出身の著者・元永知宏氏が、長嶋氏とプレーした15人の往年の名選手たちに「長嶋茂雄は何がすごかったのか」を取材してまとめたのがこちらの一冊。本著より長嶋氏の印象的なエピソードを時代に沿って抜粋し、5日間にわたって掲載する第1回。

【元大洋ホエールズ、稲川誠の証言】

 立教大学野球部の創部は1909(明治42)年。東京六大学でのリーグ優勝は13回。一度も優勝をしたことのない東京大学を除いた5大学(早稲田大学、法政大学、明治大学、慶應義塾大学)のなかで立教大学の優勝回数はもっとも少ないが、それでもその存在が日本中に知られているのはプロ野球界のスーパースターである長嶋茂雄の母校だからだ。

 大学3年生になった長嶋は1956(昭和31)年春に打率.458で首位打者になり、2本塁打を放った。その秋は打率.288に終わったものの、リーグ最多の3本塁打を記録している。

 長嶋の同期、エースの杉浦忠は1956(昭和31)年春は2勝(防御率2.05)しかできなかったが、秋には5勝(0敗、防御率1.02)をマークした。チームは春秋とも2位、優勝を狙えるだけの実力をつけていた。

 ふたりが4年生になった1957(昭和32)年の戦いが集大成となった。

 杉浦は10試合に登板して8勝(1敗)、防御率0.46。秋にも8勝(2敗)、防御率0.76という成績を残した。

 長嶋も負けてはいない。春は打率.225、1本塁打に終わったが、秋には打率.333で2度目の首位打者になった。大学生として臨んだ最後の慶應義塾大学との2回戦で通算8号本塁打を放っている。

 投打の両輪の活躍によって、立教大学としては初めての春秋リーグ連覇を果たした。長嶋らが卒業したあとの1958(昭和33)年も立教大は春秋連覇を達成し、4シーズン連続で頂点に立った。1959年(春2位、秋優勝)までの3年間が黄金期だったと言えるだろう。

 1936(昭和11)年7月生まれの稲川誠が修猷館高校(福岡)から一般受験で立教大学に合格して野球部に入ったのは、同野球部が歴史上もっともまばゆい光を放つ時代だった。

 立教大学時代に1勝も挙げることができなかったものの、大洋ホエールズで通算83勝をマークした稲川は言う。

「立教大学に在学していた頃、8シーズンで優勝が5回、2位が3回だった。僕は一般入試で入ったからレギュラーの人たちとの接点はほとんどなかったけどね。

 大学に入るまで長嶋さんのプレーを見たことはまったくなかった。東長崎(東京都豊島区)にあった立教大学野球部のグラウンドで会ったのが初めて。当時、野球部員は学年で50人くらいいて、僕みたいに一般受験で入った『その他大勢』は相手にされない。トンボを持ってグラウンド整備して練習の準備をして、声出しをしながら見ているだけ」

 レギュラー選手の練習はそれまで見たことのないレベルだった。

「ただただ、すごいなあと思ったね。特に長嶋さん、杉浦さん、本屋敷錦吾さんの3人はずば抜けていたね。まず、動きが違う。

 長嶋さんは、守備も天下一品だったね。フットワークもよかったけど、スローイングに驚いた。投げる方向に腕がまっすぐ伸びるから回転がすごくて、見えないくらいだった。ひじの運びがいいからスナップが効いたんだと思う」

 ある日、「その他大勢」の稲川にチャンスが訪れた。

「長嶋さんから『あいつのボールを打ちたい』とご指名があったとマネージャーから聞いた。わりと速いボールを投げていたから、どこかで見てくれていたんだと思う。でも、こっちは下級生だから緊張して......興奮しすぎてぶつけちゃったんだよね」

 長嶋自身は平然としていたが、周りにいた先輩が青い顔をしていたという。

「ほかの先輩に『うちの宝に何してやがる!』と怒られて、正座させられたことがある。上下関係が厳しい時代だったからね」

 デッドボールをぶつけたあとも、打撃練習で指名されることがあった。

「インコースのボールは打ちにこなくなった。外のボールを右中間に飛ばしていた記憶がある。しっかりボールを見極めないとその方向に強い打球は打てないよ」

【深夜3時にひとりで素振りをしていた】

 稲川が入学した時にはすでに長嶋はリーグを代表するスター選手になっていたが、そんなそぶりは見せなかった。

「4年生の時は、本屋敷さんがキャプテン。杉浦さんも長嶋さんも、みんなすごい選手だったけど、威張ったりすることはなかったね。レギュラーのなかでも特別な存在ではあったけど。

 ただ、長嶋さんはほかの選手には関心がなかったように思えた。誰かを教えるところは見たことがない。監督になってから松井秀喜(読売ジャイアンツ)をつきっきりで指導をしていると聞いて、信じられない思いがしたもんだよ」

 "立教三羽ガラス"が卒業したあとも強さを維持できたのは、彼らの遺産があったからだ。

「本当に強い時代だった。合宿所に入れるのはひと握り。ベンチに入れない部員は近くで下宿していたんだよ。合宿所にいる同期に聞くと、夕食後にみんなが素振りするなかで長嶋さんが出てくるのは最後。コースを決めて何回かスイングして終わりだったんだって。

 その同期は『それだけしか練習しないのか』と思っていたらしいんだけど、夜中の3時頃にひとりでスイングしているのを知って驚いていた。大学時代から、人が見ていないところで相当振り込んでいたんだろうね。後輩たちはそういう姿から学んだことが多かった」

 長嶋が4年の秋、最後の慶應義塾大学戦で通算本塁打記録を塗り替えた瞬間を、稲川は神宮球場のスタンドで見ていた。

三塁を回ったところでコーチャーと抱き合って喜びながらホームを踏んだ。それを見て、感動したよね。球場全体がものすごい熱気に包まれていたことをよく覚えている。当時の神宮球場は広くてなかなかホームランが出なかった。六大学で投げるピッチャーはみんな、プロ野球に入ってすぐに10勝できるほどの実力があったから」

 長嶋、杉浦に代表される黄金時代の立教大学は競争も厳しかった。

「僕は最後のほうになってやっとユニフォームを着させてもらったけど、1勝もできなかった。だから、それから数年後にプロ野球で長嶋さんと対戦することになるとは思ってもみなかったよ」

 2学年下の稲川にとって長嶋は遠い存在だったが、不思議な接点もあった。

「そう言えば、プライベートで長嶋さんとの思い出がある。僕の知人が長嶋さんと知り合いだった関係で渋谷の映画館に一緒に行ったんだよね。僕たちが後ろを歩くんだけど、周りの人が『長嶋だ! 長嶋だ!』と言う。関係ないのに、こっちが恥ずかしくなっちゃってね(笑)」

 プロ野球で活躍する長嶋に誰もが羨望の眼差しを送った。

あの時はすごかった。その映画館は指定席だったから、真っ暗な館内を係の人が案内してくれるわけよ。懐中電灯で足元を照らしながら。そうすると、顔なんかろくに見えないはずなのに、『長嶋だ!』と気づく。暗いなかでも、なぜかわかるんだよね。

 それだけオーラというか、存在感があったということなんだろうね。長嶋さんはそれほどすごい人なんだとあらためて驚いたよ」

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