【昭和100年】自由と危うさが同居したテレビ放送は「子どもには見せられない!」過激演出も

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2025年12月28日 08:50  All About

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2025年は昭和元年(1926年)から100年の節目。テレビなどで、“昭和ってどんな時代だった?”と振り返る機会が増えています。強気ムードで勢いづいていた時代を読み解きます。※画像:PIXTA
モノも、情報も、今ほど豊かでなかった初期の昭和時代。アナログだからこその活気に満ちた光景が日常には広がり、街は時がたつにつれ活気づいていきました。

『眠れなくなるほど面白い 図解 昭和の話』(町田忍監修)では、昭和を知る人には懐かしく、知らない世代には驚きの連続となる「昭和の本当の姿」を、庶民文化研究の第一人者の監修で解説しています。今回は本書から一部抜粋し、そのような時代の生活について紹介します。

子どもには見せられない! ゆるすぎる放送基準

昭和のテレビを振り返ると、今の放送基準では考えられないようなシーンが堂々と流れていました。 お笑い番組では過激な暴力的演出や下ネタが飛び交い、ドラマでも差別的な言葉がそのまま使われていました。

子ども向け番組でさえ、今なら放送できないようなブラックジョークがしばしば登場していたのです。昭和後期頃まで、放送の細かな自主規制は設けられていませんでした。

そしてもうひとつ、昭和の放送を特徴づけるのが、 生放送の多さです。 テレビはまさに「今」を映すメディアでした。 録画技術が一般化する前の時代、 番組の多くは“ぶっつけ本番” 。台本にないトラブルや出演者のアドリブ、ハプニングがそのまま流れることも珍しくありませんでした。 そんな予測不能の空気が、視聴者にとってはスリルであり、 テレビの“生きている感じ”を生んでいたのです 。

さらに、音楽の楽しみ方も現在とは大きく異なっていました。ラジオのリクエスト番組は定番でしたが、昭和には有線放送に電話をかけて直接リクエストする方法も広まっていました。流れる音楽は、リスナーたちのリアルな声によって選ばれていたのです。昭和の放送は、現在よりも自由さと危うさが同居した熱気を帯びた舞台でした。

住宅地をビジネスの拠点にした昭和の商人たち

買い物に出かけなくても、気がつけば家の前に商人がやってきて、品物の売り買いをしていた昭和初期〜中期。一部の地域では、住宅街そのものが商売の舞台になっていました。

静かな路地にラッパの音が響けば、それは豆腐屋が訪れた合図です。主婦たちは鍋を持って外へ出かけ、豆腐を買い求めます。また、「たけや〜さおだけ〜」と独特の節回しで声をかけながら歩く竿竹屋、ふとんの打ち直しを売り込むふとん屋、さらには突然やってきて商品を強引に売りつける押し売りまで、さまざまな商人が行き交っていました。

こうした商売の形は、まだスーパーマーケットが十分に普及していなかった当時の生活スタイルと深く結びついていると考えられます。

売られていたものは、日常的な品だけではありません。夏になると金魚売りが水槽を積んで歩き、子どもたちはお小遣いをにぎりしめて集まりました。また、これらは商人たちの生業であると同時に、住宅街の人間関係を深めるきっかけにもなりました。

現代の宅配サービスや移動販売と比べれば、こうした業務形態は素朴で不便に思えるかもしれません。しかし、住宅街を舞台にした商いは、昭和の人々にとって暮らしと直結した身近で重要な存在だったのです。

町田 忍(まちだ・しのぶ)プロフィール

1950年東京都目黒区生まれ。和光大学人文学部芸術学科卒業。在学中の博物館実習をきっかけに博物学に興味を持つ。卒業後は約1年半、警視庁警察官として勤務したのち、庶民文化における風俗意匠を研究。チョコレートや納豆ラベルなどのパッケージ収集は2000枚を超える。著書に『戦時広告図鑑』(WEVE出版)、『納豆大全』(小学館)、『町田忍の銭湯パラダイス』(山と渓谷社)など多数。現在はエッセイスト・写真家・庶民文化研究家として幅広く活躍。
(文:町田 忍(監修))

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  • 一家で総出でTVを囲み、お笑いでも「これはやっちゃダメなんだぞ」とその場で大人が子どもに注意できた昭和。一人1台になった今…目が行き届かない分、放送する側に注文がつくようになったよね…。
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