甲子園に育てられた万能型プレーヤー・平沼翔太 大阪桐蔭にリベンジ→福井県勢初の全国制覇を達成

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2026年01月06日 10:10  webスポルティーバ

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ダイヤの原石の記憶〜プロ野球選手のアマチュア時代
第24回 平沼翔太(オリックス)

「表紙にしてくださって、ありがとうございました!」

 平沼翔太で思い出すのは敦賀気比(福井)時代、2015年の選抜前。雑誌の取材に出向いた時だ。その雑誌の1つ前の号で14年の秋季地区大会の結果を掲載しており、その時に表紙になったのが平沼の投げている姿だった。その「お礼」のあとが面白い。

「僕が表紙で売れ行きはどうでしたか?」

 なかなかの大物である。

 優勝したその北信越大会では準決勝、決勝の2試合連続完封を含む22回連続無失点、打ってはホームラン2本を含む打率.667、7打点の大活躍で、のちにプロ入りする佐藤世那(仙台育英)、高橋純平(県岐阜商)、高橋奎二(龍谷大平安)ら、他地区のヒーローを抑えての表紙抜擢だった。

 そして実際、選抜では、前年の夏に準決勝で敗れた大阪桐蔭に同じ準決勝で大勝して借りを返すなど、北陸勢として初優勝。平沼は、1学年下の山崎颯一郎(現・オリックス)に一度もマウンドを譲らず、5試合45回を自責点2、防御率0.40という圧巻の投球を見せた。

【入学早々にレギュラーに抜擢】

「目をつけるのは早かった」と、ひそかに自負している。13年秋の北信越大会。敗れた日本文理(新潟)戦でライトを守っていた敦賀気比の1年生が、右前への当たりにダッシュし、一塁に矢のような送球でライトゴロに仕留めたのだ。

 またそのあとも二死一、三塁からの右前打で、一塁走者が狙う三塁へ目の覚めるようなレーザービームも披露。この時はセーフだったが、このふたつのプレーを見てとんでもない選手だということはすぐにわかった。

 さらに、試合終盤にはリリーフとして登板。試合後、林博美部長に「すごいですね、あのライト......」と言うと、こんな答えが返ってきた。

「先発の軸に使いたいのに、ケガをしちゃって。それでも、すぐに140キロかそこらは出ますよ。打つほうもいいので、夏の時点から外野のレギュラーでした」

 事実、翌年の夏には最速144キロを記録し、スライダーとチェンジアップのキレも秀逸で、2年生ながら甲子園ベスト4にまで駆け上がることになる。

 表紙にしてくださって......の話のあと、13年秋のライトゴロについて平沼に水を向けると、「ああ、あのライトゴロ、見ていてくれたんですか!」と話は弾んだ。

 とにかく、その身体能力がすごい。足腰強化のため、中学時代には陸上部に籍を置き、1500メートルでジュニア五輪に出場。高校入学後も、50メートルは6秒を切る俊足である。小学生時代、ヤングリーグのオールスター福井に体験入部した時、指導していた小林繁さん(故人)は、平沼にこう言ったという。

「うぬぼれるなよ。すごいヤツはいっぱいいるんだぞ」

 だが、その一方で関係者には「プロに行ける素材」と話していたという。中学では、そのオールスター福井で2、3年時に全国大会に出場し、敦賀気比に入学してすぐ、春の大会からレフトの定位置を獲得。そしてその1年秋に"ライトゴロ"を目撃するわけだが、「ただ......」と平沼は言って、こう続けた。

「あの大会では、背番号10というのが悔しかった。夏に、それまでの野手投げに近かったフォームをちょっと変えたんです。それで股関節を痛めてしまって......。結局、中学の時の映像を見て当時のフォームに戻し、なんとか秋には間に合ったんですが、背番号は10でした。それが悔しくて、『絶対に1番を取ってやる』というつもりで冬を過ごしたんです」

【岡本和真から三振を奪い自信】

 その冬を越えた2年春の時点では、球速は以前と同じ135キロのままだったが、春の県大会終了後に東哲平監督から「伸びるにはもうひと踏ん張り。まず食べて、太って、体重を増やせ」とアドバイスされた。それからは朝食をどんぶり飯、休み時間にはおにぎりを食べ、その結果5キロの体重増に成功した。

「そうしたら本当に、夏には球速が9キロもアップしたんです。変化球も、春までは左打者限定だったチェンジアップを右打者にも使えるように練習し、だんだんモノになってきました。6月には智辯学園(奈良)と練習試合をして、岡本和真さん(現・ブルージェイズ)にはホームランを打たれたのですが、最後の打席は三振。あれは自信になりました」

 ちなみに、平沼が2年だったその夏の甲子園では、準決勝までは防御率1.13と快調だった。とくに、準々決勝の八戸学院光星(青森)戦は「体重移動がスムーズで、球に力があった。一番いいデキでした」と、2失点完投、10奪三振のピッチングを演じた。

 だが準決勝は、したたかな大阪桐蔭打線にクセを見抜かれ、疲労もあって5回12失点と粉砕された。

「もちろん自分の実力不足ですが、一生忘れられない試合。桐蔭は、たとえば低めの変化球は振らないとか、チームとして徹底してくるところがすごいんです。でも、そこまで差があるとは思いません。次やったら、抑える自信はあります」

 その言葉どおり、翌年春の選抜準決勝で、平沼は大阪桐蔭打線を4安打完封。打線も松本哲幣の2打席連続グランドスラム(満塁本塁打)の離れ業などで11点を奪い、リベンジを果たしている。

 結局、先述のように圧巻の投球を見せて平沼は優勝投手となるのだが、じつは大会前は散々だったという。ブルペンから球が走らず、練習試合でも簡単に打ち込まれ、「自分が投げたら迷惑がかかる」と落ち込んだほどだ。

 見かねた東監督が「無理やり肩を上げようとせずに、投げやすい位置で投げてみろ」と助言したのが、奈良大付との初戦前日だった。

「そうしたら、(去年の)夏と同じ軌道のボールがいったんです。『これだ!』と、その夜はけっこうシャドウをやって体にたたき込んだら、奈良大付戦は5回までノーヒット。最速も142キロが出たので、自信になりましたね。あとはその感覚を維持するだけでした」

【3度の甲子園で通算10勝】

 どん底状態からたった1日で無四球、10奪三振で1安打完封すると、その好調ぶりは大会中ずっと続いた。投げ終わるたびに帽子が飛ぶのは調子が悪い時だが、選抜ではそれがほとんどなかった。

「帽子が飛ぶのは、おそらく上半身頼みで投げている時。選抜ではうまく下を使えていたので、飛ばなかったんでしょう」

 この対応力の高さは特筆に値する。たとえば準々決勝の静岡戦や準決勝の大阪桐蔭戦では、球種を見破られている気配を察すると、セットポジションでのグラブの高さをランダムに変え、相手の目線をずらした。そこには、本人が「自信がある」と語る冷静さが表われている。

 象徴的だったのが、東海大四(北海道)との決勝戦の2回の守備だ。無死一塁からのバントは投前への小フライ。ショートバウンドで処理すれば併殺も狙える場面だったが、平沼はあえてダイレクトでスライディングキャッチを選択した。

「グラウンドがぬかるんでいて、ショートバウンドの処理は何が起こるかわからなかった。あの場面は最低でもひとつアウトを取れればよかったので、ダイレクトで捕りました」

 結局、飛び出した一塁走者も刺し、結果的に併殺となった。

「打つほうは......まあ、ふつうでした」という打撃でも、静岡戦の初回に右足を大きく上げるフォームから先制2ラン。日常の練習は投手メニュー中心で、打席に立たない日もあるのに、この時点で高校通算21号というのは、持ち前のセンスによるものだろう。

 その夏も甲子園に出場し、明徳義塾(高知)に勝利して初戦突破。結局、3度の甲子園出場で通算10勝、打者としても打率.375を残した。

 15年秋のドラフトで日本ハムから4位で指名されプロ入り。21年のシーズン途中に西武へ移籍。さらに昨年12月9日に行なわれた現役ドラフトで、西武からオリックスへの移籍が決まった。表紙になるような活躍をまた見せてくれ!

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