写真 あなたは、疲れがピークに達して思わず口が出てしまったことはありますか?
今回は、そんな“普段ならしない行動”がきっかけで起こった電車内での小さな出来事をご紹介しましょう。
◆電車内でビール片手に撮影するおじさん
松田彩芽さん(仮名・30歳/会社員)は、立て続けに起きたクライアント対応のトラブルに追われ、心身共にくたくたに疲れていました。午前中は納期の遅れをめぐる謝罪、午後は上司からの報告催促。終業時にはパソコンの画面を見るのもつらいほどだったそう。
「もう心も体も電池切れって感じで“とにかく早く家に帰って、お風呂入って、無になりたい”、そう願いながら帰路につく電車の座席にぐったりと目をつぶって座っていたんですよ」
すると大声が聞こえたので、驚いて周りを見回すと、缶ビールを片手にネクタイを緩めている中年男性が「いや〜聞いてよ! コンビニの新しいカレー、マジでスパイス効いてんのよ!」とスマホに向かって話していたそう。
「え、テレビ電話してる? とよく見てみたら……自分の動画撮影をしている様子で」
◆「再生回数10回」の言葉が気になって仕方ない
するとその男性が「俺のYouTubeチャンネル、ついに再生10回いったんだよ!」と嬉しそうに語ると車内の空気が、一瞬だけピクッと揺れました。
「え、10回ってどういうこと? ていうか電車内で動画撮るなんて非常識だし、うるさいよ! って乗客みんなが思っていたんじゃないでしょうか」
ですがその男性の延々と続く“独りレビュー”は止まらず、車内に響き渡ったそう。
「斜め前のおじさんは、新聞の陰でため息をつき、男子高校生はイヤホンを深く押し込んで音量アップさせ、向かいの女性は目を閉じて現実逃避モードだし、まるで“全員がこの状況をやり過ごそうとしている無言の同盟”って感じで、地獄のような空気でした」
◆気づいたら男性に声をかけていた
その静かな連帯の中で、彩芽さんはその男性から受けたストレスで疲れがピークに達してしまったようで……。
「気がついたら、その男性の前に立って『ちょっと、すみません!』と声が出ていました。車内は静まり返り、男性がこちらを見て“え?”という表情で……そこで急に我に返ってしまい、どうしよう? って心臓の鼓動がどんどん大きくなっていったんですよ」
動画撮影男性と乗客達が彩芽さんに注目し、何を言うのか緊張しながら待っているのを感じたそう。
「焦った私は何を思ったのか『動画は家で撮ったほうが……もっと再生回数伸びると思います!』と意味不明なことを言ってしまったんですよ」
ですがその男性は一瞬固まり、それから真顔でうなずきました。
「『そうかな? あ、照明とか大事ってこと? たしかにそうかもしれない』ってスマホをしまってくれて。意外と前向きに私の言葉を受け止めてくれる素直な人で助かった〜! と思いましたね」
◆自分の殻を破れたような気がした
車内に静けさが戻ると、空気がふと軽くなり、向かいのおじさんが小さく「助かった」とつぶやき、女子高生が目だけで“ありがとう”と笑った気がしました。
「私は突飛な行動を取ってしまったことに動揺して思わず赤面してしまい変な汗をかいてしまいましたが……でも、ちょっとスッキリしてる自分がいたんです」
電車を降りたあと、夜風がやけに気持ち良く感じたそう。
「今までずっと迷惑客に遭遇しても関わらないのが一番だとだんまりを決め込んでいたので、何だか自分の殻を破れたみたいな感じがして嬉しかったんですよね。でもまぁ、今回は疲れ過ぎていてつい口が出てしまっただけなのですが(笑)」
彩芽さんは、その時のことを思い出すと恥ずかしさよりも“やってみてよかった”という感覚が勝るといいます。
「これまでの私は迷惑な状況に黙って耐えるしかなかったけれど、少しだけ自分から関わる勇気も持てるんだな、と気がつくことができて。もし次に似たような場面に出くわしたら、きっともう少し落ち着いて対応できそうな気がするんですよね」と微笑む彩芽さんなのでした。
<文・イラスト/鈴木詩子>
【鈴木詩子】
漫画家。『アックス』や奥様向け実話漫画誌を中心に活動中。好きなプロレスラーは棚橋弘至。著書『女ヒエラルキー底辺少女』(青林工藝舎)が映画化。Twitter:@skippop