【プロレス】付き人時代の藤原喜明が見たアントニオ猪木の弱気な一面、モハメド・アリ戦を前に「勝てるかなぁ」

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2026年02月12日 10:20  webスポルティーバ

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関節技の鬼 藤原喜明のプロレス人生(6)

(連載5:藤原喜明が振り返る、坂口征二と大物ルーキー・長州力の新日本プロレス入団「俺にジェラシーなんかあるわけがない」>>)

 プロレスラー藤原喜明はサラリーマンを経て、23歳で旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。アントニオ猪木、カール・ゴッチの薫陶(くんとう)を受け、道場で関節技の技術を磨き、新日本プロレス最強伝説の礎を築いた。

 そんな藤原が激動の人生を振り返る連載の第6回は、付き人として目撃した伝説の試合、「アントニオ猪木vsモハメド・アリ」について語った。

【プロレスが最強を証明するための異種格闘技戦】

 ストロング小林、大木金太郎との日本人対決に勝利したアントニオ猪木が、ライバルのジャイアント馬場が率いる全日本プロレスとの興行戦争を制すべく乗り出したのが、「異種格闘技戦」だった。「プロレスこそ最強の格闘技」と掲げた猪木は、ボクシング、柔道、キックボクシング、空手の選手と闘うことで、大衆の興味を惹こうとしたのだ。それと同時に、「八百長」と中傷されてきたプロレスの地位向上も目指していた。

「異種格闘技戦」は、アイデアマンだったマネージャーの新間寿がプロデュースした。第一弾が、1972年ミュンヘン五輪で柔道の無差別級、93キロ超級の2階級で金メダルを獲得した、オランダのウィレム・ルスカ。1976年2月6日、日本武道館で行なわれた試合で、猪木はバックドロップ3連発でTKO勝利を収めた。

 ルスカはその後、プロレスラーに転向し、藤原も道場でスパーリングを行なうなど公私ともに親交を深めた。

「ルスカは運動神経が抜群によかったよ。地方巡業に出た時に、体育館のそばにグラウンドがあるとサッカーをやるんだけど、これがうまかったんだ。プールで泳いでるところも見たけど、速かったな。何をやっても万能だった。

 スパーリングもやって、俺のことを認めてくれたよ。リングを離れても紳士で、いい男だったなぁ。ただ、ひとつだけ欠点があってな。それは、プロレスだけがヘタだったってことだよ(笑)」

【試合前に揺らいでいた猪木の気持ち】

 ルスカに勝利した猪木は、約4カ月後の6月26日に同じ日本武道館で"最大の勝負"に出た。ボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリとの「格闘技世界一決定戦」だ。対戦が実現するまで交渉は難航を極めたが、猪木サイドは試合ルールを含め、アリ陣営の要求をすべて呑む形になった。

 猪木はアリ戦の直前、シリーズを休んで試合に備えた。スパーリングパートナーに指名されたのが、道場で群を抜く実力を示していた藤原だった。練習から私生活まで帯同したが、そこで猪木のいつもと違う一面を見た。

「毎日、心情が違う感じだったな。日によって躁になったり、鬱になったり。考えてみろよ。アリはマネージャーや練習パートナー、50人くらいの取り巻きを連れて来日してたんだ。そういう連中が、マスコミとかを使っていろんな情報を流してきたんだよ。例えば、アリはものすごく調子がよくて、ロードワークで何キロも走った......とかな。そうすると猪木さんは、『ヤバい』という感じで落ち込んでた。

 とにかく、張りつめていたな。思い出すのは......合宿所でセントバーナード(犬)を飼ってたんだけど、練習中に道場の扉を開けてたら中に入ってきたから、俺が『ダメだ』って言ったんだけど、猪木さんに『ナニ! この野郎!』と怒られてな。そういう些細なことにイラっとくるくらい敏感になっていた。

 そうかと思うと、次の日には、『アリの調子が悪くて練習ができなかった』なんて情報が流れてきて、猪木さんは『ヨシ』って元気になったり。だけど、そんなふうに一喜一憂しているうちに、やっぱり落ち込んでいくんだよ。これは俺の考えだけど、アリ陣営に、情報をうまく流して相手をコントロールする専門家がいたんじゃねぇかと。猪木さんもそれにハマっちゃったんじゃないかな」

 ある日の練習で、猪木がつぶやいた言葉が忘れられないという。

「猪木さんが俺に『勝てるかなぁ』って、ボソッとつぶやくように聞いてきたんだ。俺は『勝てます!』と何の迷いもなく即答したよ。そうしたら猪木さん、ニコニコして『勝てるよな。調子いいからな』って笑顔になってな。俺は『大丈夫です!』って念を押したよ」

【猪木がとった「アリキック」戦術】

 藤原は猪木の心を懸命にサポートした。

「冷蔵庫で、ビールをキンキンに冷やしておいたんだ。猪木さんはアリ戦に備えてアルコールは断っていたんだけど、俺はある日、練習が終わったあとにビールをコップいっぱいついで、『お疲れさまでした』って持っていたんだよ。少しでも気持ちを前向きにしてほしいと思ってな。そうしたら猪木さんも、俺の気持ちを汲んでくれたのか、笑顔で『一杯だけな』って飲んだんだ。それで一気に流し込んで、『ありがとう』って言ってくれたよ。

 ビール一杯なんて、小さな安らぎでしかない。それに感謝してくれたのはうれしかったけど、今思えば、心の起伏がそれだけ激しかったってことだよな。死ぬか生きるかって試合なわけだから、当たり前だけどな」

 そうして迎えたアリ戦。藤原はセコンドについた。3分15ラウンドの闘いのルールで、猪木は蹴り、投げなど、あらゆるプロレス技を禁じられていた。その1ラウンドで、猪木はいきなり、スライディングでアリの足をめがけて蹴りを放った。それは空振りになったが、15ラウンドを通じて仰向けに寝転がり、蹴りを放つ作戦を徹底した。

「俺は詳しいルールを聞かされていたわけではないけど、『猪木さんは何もできねぇな。がんじがらめだな』と思ったよ。だから、あの作戦しかなかったんだ。猪木さんは、考えに考え抜いてあの蹴りを出し続けたんだと思うよ」

 後に「アリキック」と呼ばれることになる蹴り。試合前の藤原との練習では「一度も試していなかった」という。

「俺が思うのは、猪木さんのコンディションが素晴らしかったなってことなんだ。リングを照らすライトは暑くて、40度以上あったんだよ。しかも相手はアリ。スポーツ界にとどまらず、世界的に有名な人物だった。スポーツマンというより"神"に近い存在だったんだ。

 それを倒そうっていうんだから、大変なことなんだよ。猪木さんは鬼になって蹴り続けた。すさまじい緊張感だろ? だけど猪木さんは、15ラウンドもあの状態で蹴り続けたんだな。コンディションが万全じゃないとできない。『やっぱり、アントニオ猪木は素晴らしい』と思ったよ」

【アリと闘った猪木は「バカ」】

 試合は15ラウンドで決着がつかず、判定に持ち込まれた。結果は、ジャッジとレフェリーの三者三様で引き分け。試合後、藤原は控え室で猪木の涙を見た。

「涙ボロボロこぼしてな。俺だけが見てたんだけど、『このまま控室にいるとヤバいな』と思って出たんだ。あの涙の意味? それは、勝てなかった悔し涙だろ。事情をよく知らない周囲は『捕まえていれば勝てたんじゃないか』とか言ってたけど、終わってからなら何とでも言えるだろ。あの悔しさは、猪木さんしかわからないものだよ」

 決戦の翌日、新聞各紙などマスコミは「世紀の茶番劇」などと激しく批判した。

「批判してたのは、闘いを知らないヤツらだよ。俺は声を大にして言うけど、あの試合こそ昭和最後の真剣勝負だ。猪木さんにとっても生死をかけた闘いだったし、世界チャンピオンのアリも負けたら大変なことになってたからな」

 今も語り継がれる伝説の試合から50年。藤原は今、思いを馳せる。

「こんなこと言っちゃなんだけど......猪木さんって、ハッキリ言って『バカだな』と思ったよ。だって、アリとなんて闘わなくてもいいんだから。そこに飛び込んでいくっていうのは、俺なんかにはわからない感覚だな」

 藤原の「バカ」という言葉には、温かさと敬意がこめられていた。そして目を細め、猪木への思いをあらためて打ち明けた。

「あの人はギャンブラーなんだよ。アリ戦はその最高地点。負ければすべてを失う。新日本の興行にも客が入らなくなるだろ? それなのにあの試合をやったんだ。今思えば、引き分けになってよかったよ。もしどっちかが勝ってたら、負けたほうの陣営から死人が出ていたかもしれない。そういう試合だったんだ」

 猪木とアリは闘いを終えたあと、親交を深めた。1998年4月4日、東京ドームで7万人を集めた猪木の引退試合にアリも来日。パーキンソン病に冒された体でリングに上がり、猪木と握手をかわした。

「俺が思うのは、ふたりにとってあの闘いは、お互いの人生において一番怖かった試合だったんじゃないかということ。そこを乗り越えると、『ありがとう』という感情が芽生えていくんじゃないかと。あの友情は、普通の人にはわからないだろうな」

(敬称略)

つづく

【プロフィール】

藤原喜明(ふじわら・よしあき)

1949年4月27日生まれ、岩手県出身。1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門し、その10日後に藤波辰巳戦でデビュー。カール・ゴッチに師事し、サブミッションレスリングに傾倒したことから「関節技の鬼」として知られる。1991年には藤原組を旗揚げ。現在も現役レスラーとして活躍するほか、俳優やナレーター、声優などでも活動している。陶芸、盆栽、イラストなど特技も多彩。

このニュースに関するつぶやき

  • ルスカとはセメントではなかったよね。アリ戦も純粋なセメントではなかったと記憶してるけど、まぁ興行的な成功が必須だったわけだから必死で闘ったのだろう。昭和の夢と幻想だね
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