高市首相と野田佳彦氏 同じ政治塾で学び、当選も同期だったが…同じ釜の飯を食べた2人についた「決定的な明暗」

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2026年02月13日 16:10  web女性自身

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「これだけの大敗を喫したのは、私の責任が極めて大きい。万死に値する」



2月8日、第51回衆議院選挙の記者会見でそう首を垂れたのは中道改革連合の共同代表だった野田佳彦氏(68)だ。一方、戦後最多となる316議席を自民党にもたらした高市早苗首相(64)は晴れやかな表情で会見に臨んだ。



真冬の短期決戦で火花を散らした2人だが、今から約40年前の春、同じ陣営でともに汗を流し、勝利の美酒を一緒に味わったことは、あまり知られていない。政治部記者が語る。



「野田さんが政治家としての第一歩を踏み出したのは、1987年(昭和62年)の千葉県議会選挙。松下政経塾1期生だった彼が、地盤もない船橋市選挙区に無所属で立候補して、1万8千票あまりを獲得して県議になりました。



その選挙活動を手伝ったのは高市さん。松下政経塾5期生で、当時も塾生だった高市さんは研修の一環で運動員として野田元代表の家に住み込み、ポスター貼りなどを手伝っていました」(前出・政治部記者)



松下政経塾は、“経営の神様”といわれ、松下電器産業(現パナソニックホールディングス)を一代で築いた松下幸之助が、私財70億円を投じて「21世紀の日本を経営する人材づくり」を目指して創設された教育機関(神奈川県茅ヶ崎市)。塾生期間は原則4年の全寮制で、塾生は「リーダーになる」「国家百年の大計をつくる」ことを目標に研修を積んでいく。



野田元代表は、自らのビジョンをまとめる「かわら版」(No.1474 ’2025年10月14日)で、高市首相について、こう触れている。



《〈松下政経塾第1期生であった私は、第5期生の入塾試験で面接を担当しました。その受験生の中に高市さんがいました。革ジャンで大型バイクに乗って現われ、ヘルメットを脱ぐとロングヘアのお嬢さんではありませんか。颯爽としていました。いざ面接を始めると、彼女はどんな質問にも堂々と明快に答えました。頭脳明晰であると同時に肝が据わっていました。複数の面接官がいましたが、最高得点をつけたのは私でした》 〉



「千葉の政治風土を変えよう」と選挙活動を展開した当時30歳の野田元代表と当時26歳だった高市首相。「地盤(後援会)、看板(知名度)、かばん(資金)」の3バンをもった世襲議員が多い中、自衛官とサラリーマンの家庭で育った野田元代表と高市首相。選挙活動中も、夜が明けるまで政治談義に華を咲かせたかもしれない。



松下政経塾を卒塾後、テレビキャスターとしてお茶の間に知られる存在となった高市氏。1992年の参議院選挙に初出馬するも落選の憂き目にあう。翌年の衆議院総選挙に再チャレンジするが、奇しくも千葉県議を二期務めた野田氏も出馬していた。



「高市さんは無所属の議員として、野田さんは日本新党の議員として初バッジを付けました。それぞれ落選も経験しましたが、それからほとんどの期間、衆院議員を務めてきました。政治的な立場も、思想も違うふたりですが、同じ釜の飯を食べた者同士という思いは残っているのでしょう。



2024年に野田氏が立憲民主党の新代表に選ばれたとき、高市さんは野田氏を祝福し、『共感して尊敬しているところも多い』とコメントしています。また、高市氏が総裁選勝利後の初の党首会談では、野田氏が『よく食べて、よく寝た方がいい。もし首相になるなら衰弱してしまったらダメ』とねぎらうと、高市さんは『焼き肉をおごってください』と返す場面もありました」(前出・政治部記者)



同じタイミングで議員バッジをつけたふたり。今回の選挙で明暗がくっきりわかれてしまった。

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  • 公明の言う中道は政治的立ち位置ではなく宗教用語という話もあるが、野田は本気で政治的中道を目指したと思う。とは言え落ちた候補は軒並み左であり公認の為に移っただけ。
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