田中角栄はじめ歴代総理も通いつめて 芸者として初の旭日双光章を受勲した赤坂育子さん(85)

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2026年02月15日 11:10  web女性自身

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かつて赤坂は華やかな花街。高度成長期には、芸能人や政財界のトップが毎日のように姿を見せ、夜の世界を400人以上の赤坂芸者が艶やかに彩ったものだ。



それがいま、残った料亭は2軒、芸者は20人弱……。花街のレジェンド・育子さんは決意した。赤坂に再びにぎわいを取り戻すと。



若い芸者や半玉(芸者見習い)たちを自宅に家族同然に住まわせ、踊りや歌を愛を込めて徹底的に仕込む。赤坂芸者の誇りをつないでいくために。



「生まれは、観光地として有名な水前寺公園のすぐそばでした」



育子さんは、1940年(昭和15年)2月21日、熊本市出水町(現・中央区出水)に生まれた。



「7人きょうだいの末っ子ですが、母は私が3歳のときにがんで亡くなっていて、顔も覚えてません。ですから、19も年上の長姉が母親代わりでした。



小学校の放課後に雨が降っても、私だけ傘を持ってきてくれる母さんがいない。いまも童謡の『あめふり』を耳にするたびに泣けてくるんです」



父親は市の交通局の技術者で、まじめな性格だったが、



「それが、いったんお酒を飲み出すと、お給料も使い果たすような人でした。だから、いまでも酔っぱらいは嫌い。



そんな私が花柳界で働くようになるんだからね……」



人生の転機は、商業高校に入学してすぐのこと。ふと訪れたデパートで、着物姿の半玉さんと出会う。



「かわいい着物に目がくぎ付けになって話しかけると、地元の芸子さんで、お稽古しながらお給料までいただけるというじゃない。勉強も嫌いだったし(笑)、お父ちゃんに『私、芸子さんになりたい』と言ったら、『絶対許さん』と。まあ、高校に入ったばかりだから当たり前なんですけどね。



でも、言い出したら聞かない私ですから、『どうしてもやってみたい』と書き置きを残して、風呂敷包みひとつで家出しました」



長唄の師匠宅に住み込み、“はん子”の名で半玉として働き始めた。



「稽古は苦になりませんでしたが、それ以上に先輩のお姐さんたちに対する礼儀作法が厳しかった。お茶屋の待合室で、お姐さんのコートを預かるなどの世話をして、お座敷でもビールがなくなりそうならスッと差し出す。



私、闘っていたのよ。負けず嫌いだったし、見番(花街の組合)の看板に売り上げの順位も出るので、当時、熊本の花柳界にも200人近い芸者さんがいたから、まずはトップ10に入ろうって」



生来の明るさとこまやかな気配りで、半玉から芸者になると、すぐに売り上げは上位に。それでも、切り詰めた生活を続けたのには理由があった。



「幼心に、うちの母のお墓が木のお塔婆で朽ちかけているのが悲しかった。



だから花柳界入りを決心したときから、いつか母のお墓を建てると決めて、1年半、お給料やご祝儀を貯めていたんです」



熊本で名を売って6年ほどしたころのことだった。ある常連客が言った。



「東京の赤坂には、日本有数の花柳界があるんだよ」



瞬時に「行きたい」と思ったが、熊本出身で当時はプロ野球巨人軍の監督だった川上哲治さんなど贔屓客たちに相談すると、



「九州の熊本の田舎芸者が、東京の花柳界で通用するわけがない」



誰もが口をそろえて言う。これが彼女の負けん気に火をつけた。



「好きで入った世界ですから、どうせなら日本一の東京で芸者としての自分を試したい。よし、花のお江戸で勝負しよう!」



前の東京オリンピックが開催された1964年の春、育子さんは上京する。24歳だった。





■政財界や芸能人のトップも訪れるようになり、なかには岸信介はじめ、歴代の総理大臣の姿も



「赤坂に来ていちばんの驚きは、花柳界のシステムが違っていたこと。まず、先輩後輩の上下関係は熊本のほうが厳しかった。私は熊本流に“目配り、気配り、思いやり”で、先に気を使って声がけするんだけど、当のお姐さんたちは『いいのよ、そんなこと』という返事。ああ、都会の芸者は自立してるし、割り切ってるんだなと」



寂しい気もしたというが、戸惑っているヒマなどなかった。時は高度成長期の真っただ中。赤坂も政財界の要人の接待などで夜ごとのにぎわいぶり。ところが意外にも、育子さんは当初“おとなしい芸者”で有名だったという。



「実は、熊本弁が抜けずに標準語が話せなかったのよ(笑)。どうしようかと考えて、そうだ、赤坂にもゲイバーがあったから、そこで会話やおもてなし術まで学ぼうと思ったの。2年間、通い詰めて、1年過ぎたときには標準語もマスターしてました」



巧みな会話術に、やがて“赤坂一の美人”の噂がいきわたり、当代きっての売れっ子に。



花柳界を上り詰めていく育子さん目当てに政財界や芸能界のトップたちも訪れるようになり、なかには総理大臣の姿も。



「岸信介先生にはゴルフも教わりましたし、佐藤栄作先生以降、歴代の総理にご贔屓にしていただきました。近年も、今の小泉進次郎防衛相のお父さま(小泉純一郎元首相)の世代くらいまでは、本当に政界の先生方も多く見えたものです。



田中角栄先生のお座敷は大広間に80人もの芸者さんがいて、肝心の先生がいないと思ったら、奥からあのしゃがれ声が聞こえてくる。とにかく話がおもしろくて勉強にもなるから、芸者衆もお客さまもこぞって聞き入っていましたね」



芸能界からも石原裕次郎や美空ひばりら錚々たる顔ぶれが、育子さんとの会話を楽しみに訪れた。逆に1980年1月には、育子さん自身が『週刊朝日』の表紙を飾った。篠山紀信カメラマンの撮影で日本中の評判となり、当時はまだ230人ほどいた赤坂芸者のなかで、名実共にトップとなったのだ。



「そうそう、上京時に田舎芸者うんぬんで厳しいことをおっしゃった川上監督たちも、赤坂で再会したときは、『よく頑張ったな』とねぎらってくださいました」



現在も住み続ける都内の閑静な住宅街で、熊本時代から憧れだったマンション生活を始めたのが1996年。ここで置屋も兼ねて、若い芸者や半玉たちと「家族」の暮らしを始めるのだった。



インタビューの中でも、育子さんは「結婚しない人生を選んだ」と、きっぱりと語った。



「もちろん、過去にはいろいろありました(笑)。30代初め、内緒で彼氏とアメリカ旅行して飛行機の火災事故に巻き込まれたり。



40代では豪邸に暮らす男性からプロポーズされましたが、『やっぱり私は踊りをやりたい』とお断りしました。それでも相手は『わかった、踊りも続けていい。あと何年待てば』と聞くから『あと5年は』と告げたら、最後には別の女性と結婚なさいましたね。あとで、その方がある地区の長者番付1位と知って驚くんだけど(笑)。でも踊りを選んで、後悔はありません。



うちのコたちとも、そんな話をします。ただ私が言うのは、『自分が好きなら、お付き合いもしなさい。でも、お金のためならおやめなさい』と。誰でも人をあてにしちゃ、この世界ではやっていけません」



結婚はしなかった育子さんだが、いつも家族同然の弟子たちに囲まれていた。



「私が母親の顔さえ知らないだけに、うちの家や食卓は愛情あふれる場にしたかったんです」



その思いは、2016年の旭日双光章の受章でなお強くなる。



「初めて芸者という職業として勲章をいただいたことが、何よりうれしかった。私、芸者は女性にとって最高の職業と思って生きてきました。自分が頑張った分だけ、きちんとやりがいが形になって返ってくるんですから。



勲章をいただいて、次はその文化を、若い世代につなげていきたいという思いがますます湧き上がりました。若いコたちと一緒に生活し食事も共にしながら、いちばん伝えたいのは『芸者は誇りをもってする仕事だ』ということ」



だから真希さんや小梅さんが入門を希望したときにも、ひとつの条件を提示したのだった。



「それは、私が親御さんと会って話をすること。家族ぐるみで納得してからでないと、この一生の仕事は続きませんから。



私が“このコなら”と見極めるのは姿形じゃないんです。素直に『ありがとう』『すみません』が言えることが大事。踊りの稽古でも、私は同じ間違いをすれば『バカヤロー』と叱りますが、それを『自分のために言ってくれてるんだ』と思える人は残ります」



しかしいま、芸者文化を支える赤坂の街や花柳界に元気がないのは寂しい限り、と繰り返す。



「街の再生の鍵を握る若い世代を育てたい。赤坂が再びにぎわいを取り戻すには人が要るんです。



私は熊本で生まれましたが、その後は赤坂に育ててもらいました。芸者で68年、赤坂で62年。親との縁を切ってまで花柳界に入った私ですから、残りの人生は赤坂に恩返しをしたい。大げさじゃなく、この地に骨を埋める覚悟です」



【後編】花街の「国宝」歴史を若い世代に伝えていきたい芸者・赤坂育子さん(85)「さあ、稽古稽古!」へ続く

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