【フィギュア】五輪で2度のSP落ち「向いていない」と悩む日々 りくりゅうが結成に至った経緯

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2026年02月17日 09:51  日刊スポーツ

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金メダルを手に笑顔の三浦璃来、木原龍一組(撮影・前田充)

<ミラノ・コルティナオリンピック(五輪):フィギュアスケート>◇ペアフリー◇16日(日本時間17日)◇ミラノ・アイススケートアリーナ


【ミラノ=藤塚大輔、松本航】愛称「りくりゅう」こと三浦璃来(24)木原龍一(33)組(木下グループ)が、ペア日本勢初の表彰台となる金メダルを獲得した。フリーの世界歴代最高を更新する異次元の158・13点。合計231・24点で頂点に立った。


日本は72年札幌大会から7組が出場し、過去最高は22年北京大会の三浦、木原組の7位。日本ペアの新たな歴史を切り開いた。


日本フィギュア界の金メダルは06年トリノ大会の荒川静香、14年ソチ、18年平昌大会の羽生結弦に続く4例目となった。


ショートプログラム(SP)は5位と出遅れた。中盤のリフトで乱れが出て、まさかの今季ワースト73・11点。フリーで自己新の80・01点で首位に立ったミネルバファビエンヌ・ハゼ、ニキータ・ボロディン組(ドイツ)を6・90点差で追う展開の中、圧巻の演技を披露。6・90点差の逆転は、現行の採点方式となった06年トリノ大会以降では最大。これまではSP4位発進だったアリョーナ・サブチェンコ、ブルーノ・マソ組(ドイツ)が5・80点差を巻き返し、SPトップの隋文静、韓聡組(中国)を合計点で0・43点、わずかに上回った18年平昌大会だった。


   ◇   ◇   ◇


◆りくりゅうの結成経緯


木原はもともとシングル選手だったが、14年ソチ五輪から団体が採用されることが転機となった。時系列が前後するが、12年世界選手権で高橋成美がペアで銅メダルを獲得。当時のパートナーがカナダ国籍だったため五輪出場の壁となり、期間が短い中で新たなパートナーが必要だった。そこで11年夏に日本連盟主導のペアのトライアウトに参加していた木原に、白羽の矢が立った。当初は転向に後ろ向きだったが、周囲の熱い説得を受け、13年冬の国体(現国民スポーツ大会)後からペアスケーターの人生が始まった。


14年ソチ五輪では個人SP18位でフリー進出ならず。15−16年からは中京大の後輩の須崎海羽とパートナーを組み、18年平昌五輪も出場したが、個人SP21位でまたもフリーに進めなかった。19年初頭には4大陸選手権へ向けた練習中に脳振とうを発症。棄権を余儀なくされて、同年の世界選手権を欠場した。須崎とのコンビを解消し「向いてないのかな、辞めた方がいいのかな」とペア続行を思い悩んだ。一時は「シングルで国体を目指してやめようかな」と、シングル選手として競技人生の最終盤を迎える覚悟を固めた。


そんな最中、19年夏に三浦璃来からペア結成の誘いを受けた。三浦は15年にトライアウトに参加したことがきっかけで、大阪スケート倶楽部を同じ拠点としていた市橋翔哉とペアを結成。同年末の全日本選手権のジュニアペアの部で優勝し、16年2月には国際大会デビューとなったバーバリアンオープンで7位に入った。その後も17、18年に世界ジュニアに出場。そんな中、市橋とのコンビを解消する運びとなり、新たな相棒を模索することになったのだ。


19年7月。2人は名古屋市・邦和みなとスポーツ&カルチャーのリンクでトライアウトをした。木原の地元の東海市からほど近くにあり、当時は貸靴コーナーでアルバイトをしていた地でもあった。木原にとって「最後のチャンス」のつもりだったが、三浦を頭上で横回転させながらキャッチするツイストリフトを試すと心変わりした。「雷が落ちた。今までと違う」。全ての感覚が合い、結成を決断。同8月からカナダ・オークビルを拠点とし、木原にとっては3度目、三浦にとっては初の五輪を目指すと決意した。


木原の直感は合っていた。北京五輪で日本勢最高の7位入賞を果たすと、22−23年には国際スケート連盟(ISU)主要大会のGPファイナル、4大陸選手権、世界選手権を全て初制覇。日本勢初の年間グランドスラムを達成した。25年には世界選手権を2年ぶりに制覇。今大会はSPから大逆転を飾り、日本ペア初の表彰台となる金メダルをつかみ取った。

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