「感情が残っていた」母の“認知症”と向き合った脳科学者、料理・散歩・旅行…暮らしの工夫で取り戻せたモノ

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2026年03月07日 16:10  週刊女性PRIME

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脳科学者・恩蔵絢子さん(撮影/山田智絵)

「母が認知症になってからは、あんなに得意だった料理もしなくなって。青白い顔で座っているだけ。でも、私がサポートしながら台所に立つと、料理を完成させることができたんです。すると、認知症になる前のように豊かな表情になって、母には感情が残っているって、うれしくなりました」

脳科学者・恩蔵絢子さんの暮らしの工夫

 そう語るのは、脳科学者で、東京大学大学院総合文化研究科特任研究員の恩蔵絢子さん(46)である。恩蔵さんの母親・恵子さんは65歳だった2015年、認知症と診断された。恩蔵さんは娘としてだけでなく、脳科学者としても、約8年にわたり母親の認知症に向き合ってきた。認知症になると表情が乏しくなったり、家族など、人への関心が低下したりするといわれるが、研究者の視点で暮らしの中に工夫を凝らし、もともと母親が持っていた優しい感情を取り戻すように関わった。

 例えば、恩蔵さんが出かけようとすると、母親は「雨が降りそうだから傘を持っていきなさい」とか、寒そうだったら「上着を持っていきなさい」と声をかけてくれた。風邪をひいたら、おかゆを作ってくれることもあった。

「認知症を“治す”という視点をはずせば、できることはたくさんあると気づきました。認知症は進行性だといわれますが、悪くなるだけではない。工夫次第で、それまでやってきたことをまたできるようになる場合もあるし、その人らしさを取り戻せる可能性があると発見できました」

 ただ、最初からポジティブに母親の認知症を受け入れられたわけではない。異変を感じた当初は、何のために脳の勉強をしてきたのか、なぜ防げなかったのか……と無力感にさいなまれ、自分を責め、たびたび涙をこぼしていた。そんな「否定する期間」が10か月ほど続いたという。

 恵子さんに物忘れが目立ってきたのは'14年のこと。

 恩蔵さんは実家で両親と3人暮らし。研究職は忙しいので、身の回りのことは母親任せで、買い物を頼むことも多かったのだが、買い忘れることが少しずつ増えていった。翌'15年になると、立ち止まって“うん?”と言いながら後頭部に手を当て、ポリポリと掻くしぐさが増える。「どうしたの?」と聞いても、「なんでもないのよ、なんだったかしら」とごまかしていたが、明らかに何かに困っていた。

 桜のシーズンには、「絢ちゃん、今日は桜が満開!」と言うのだが、よく見ると五分咲き程度だったことも。

 得意だった料理もできなくなった。恩蔵家ではみそ汁の大根は短冊切りだったが、なぜかいちょう切りに変わっていた。のちに、料理を始めても、途中で何を作っていたのかわからなくなるらしく、キッチンに立つこともできなくなった。家族が好きな冷凍チャーハンを買ったこと自体忘れて何度も購入するため、冷凍室にたまる一方だった。

 最初は、「そんなことができないはずない、どうしちゃったの?」と母のことを無意識に責めていた。だが、徐々に認知症だと認めざるを得ない状態に。それでも当時は受診させる気にはなれなかった。

「もし認知症だと診断されても、病院でできるのは対症療法以外にはないからです。それに母が母でなくなってしまうような気がして怖かった。自分を絶対的に守ってくれた人が私のことを忘れてしまうんじゃないかって」

 しかし異変から10か月が過ぎた'15年秋、決定的なことが起きる。恵子さんは合唱団で活動しており、毎年秋になると、大きなホールで行われる発表会に参加していた。合唱が始まると、信じられない光景を目にする。

「母の前には楽譜が置いてあるんですが、今、楽譜のどこを歌っているのかを何度も隣の人に聞いているんです。母はピアノの先生をやっていて、初見で楽譜が読めるし、何度も練習していたはずなのに……。ホールで一緒に見ていた父と病院に連れていこうという話になりました」

診断後、希望を見いだし歓喜!

 診断はやはり認知症。恵子さんは一瞬ピクッとしたぐらいで、医師の話を、感情を表に出さず聞いていた。普通の家族ならば、帰りは重たい雰囲気になってもおかしくないが、脳科学者の恩蔵さんは意外な結果に喜々としていた。

「認知症では海馬に萎縮が見られることが知られています。でも先生が示してくれたデータでは、同年代の平均以上には萎縮していましたが“それだけ?”というわずかなレベルでした。“私がこの1年抱えてきた悩みはいったい何?”と思う程度。これだったら、できることはいくらでもあると感じました」

 受診前の悲観的な気持ちはどこへやら、すっかり前向きな気持ちになっていた。病院からの帰りの車の中で、運転席の父親、助手席の母親に向かって、後部座席から恩蔵さんは弾んだ声で話しかけた。

「ママ、大丈夫だったよ。これから一緒に料理しよう。毎日は無理だけど、週3回ね。それからパパにもやってもらいたいことがあります! ママと2人で散歩してください」

 まず料理だが、恩蔵さんによれば、料理が難しくなるのは次のような理由だ。

 海馬は「今ここで起きていること」を長期記憶として保存するために重要な役割を果たす部位だ。例えば今、会った人の名前、その人と話した内容、あるいは映画や小説のストーリーの流れを覚えるときなどに機能する。

「海馬の働きが弱くなると、料理の手順を時系列で覚えられなくなります。何を料理しているのか、今どの工程まで終えたのかがわからなくなるのです。だから母は料理ができなくなってしまった。真っ青な顔をしていたのは、今まで得意だったことができなくなったことに打ちのめされ、自信をなくしてショックを受けたからなんです」

 しかし、包丁の使い方など、身体が覚えている動作は忘れない。恩蔵さんは、料理中、頻繁に今何を料理していて、どこまで工程が進んでいて、次に何をすればいいのかを母親に伝えた。つまり海馬の役目を恩蔵さんが果たせば、母親はまた料理ができるはずだと考えたのだ。

 恩蔵さんは料理をほとんどやってこなかったので、母親の得意料理、天ぷらと茶碗蒸しなどを教えてもらうことにした。記憶がまだ残っている間なら、それができると思ったのだ。恩蔵さんは料理初心者なので、もたつくこともたびたびあったが、いろいろな料理を二人三脚で完成させた。

「母も料理がまたできたことで自信になったのか、青白かった表情が生き生きして、認知症になる前と変わらない、豊かな表情になりました」

「皿洗いは任せて!」と、鼻歌を歌いながら担当してくれるようにもなった。洗剤をつけ忘れて、洗い残しが見つかることもあったが、指摘はせず、自分がやると決めたことは続けてもらった。

「失敗をするのはかわいそうだからと仕事を取り上げると居場所がなくなるし、自尊心を保つことも難しくなりますので見守ることにしました」

「散歩」で記憶を整理する機能を維持

 もうひとつ、提案した散歩。目的は、記憶を整理する機能をキープするためだった。

「海馬が萎縮するとともに“後頭頂皮質”の働きが落ちていたんです。海馬と後頭頂皮質は、デフォルト・モード・ネットワークという回路でつながっていて、これがうまく機能しないと、記憶の整理整頓ができないのです」

 散らかった部屋では物をなくしやすいのと同じように、脳内で記憶が整理されていないと、必要な情報を取り出しづらくなってしまう。

「この状態だと、何かやろうとしても空回りしてしまうので、自信をなくしたり、やる気をなくしたりするんです」

 デフォルト・モード・ネットワークを活性化させるには、入浴や睡眠などでリラックスしたり、何も考えず散歩したりするのがよいとされる。両親はすぐに習慣化した。

「父が会社員だったころは、一緒に散歩したりする時間がなかったからでしょうね。『主人と一緒の時間が増えてうれしいの』と母は友人に言っていたようです。父が準備にもたついていると、『先に行くわよ』とけしかけるぐらい楽しそうでした」

 散歩コースは自宅から片道約40分。途中にあるファミリーレストランで食事して家に戻るのだ。父親の實さん(77)はこう話す。

「道すがら子どもを見かけると、近寄って『だーれだ?』と言っては可愛がっていました。子どもも心を許して女房のあとをついてきそうになったり、楽しそうでした。ピアノ教室をしていたから子どもが好きなんですね。通り沿いの家に咲く薔薇などのお花を見かけると足を止めて、『きれいね』と楽しんでいました」

 散歩の習慣は、認知症が重度になってもやめることなく、脚を骨折して歩けなくなるまで7年間続いた。

 恩蔵さんは母親の変化を振り返って、次のように語る。

「脳科学には“安全基地”という言葉があるんです。子どもは初めて滑り台に挑戦するとき、必ず親の姿を確認しています。もし失敗しても助けてくれると思うから勇気を出して頑張れるんです。実は大人にとっても安全基地は必要だということがわかっています。でも母が認知症になった当初、私は母の安全基地にはなれていませんでした」

 認知症の診断前、みそを買いに出かけたのに、忘れて帰ってきたときは、「え、なんで」と大げさに驚いた顔をした。恩蔵さんが入浴中に、不意にドアを開けられたときは「やめてくれない?」と不機嫌な顔をしたり……。家事を完璧にこなす母親だっただけに“しっかりしてほしい”という気持ちもあり、つらく当たることも多かったのだ。

 母親は「私の居場所はここにはない」と言って、家を出ていこうとし、それを制止すると「あなたたち、私を否定するじゃない」と怒った。恩蔵さんはモヤモヤした感情や不安を日記に書きつけていた。

次は、私が母の安全基地になる!

 そんな葛藤があっても、母親の介護を前向きにできるようになったのは、幼少期に母親から受けた安全基地の体験があったからである。その恩返しをと思ったのだ。

 恩蔵さんは'79年、神奈川県に生まれた。3つ上の兄と2人きょうだいだ。

「子どものころは、電車の中でじっとしていられず、“ママー!”と叫びながらうろちょろしていたようです。母は注意をしなかったけど、困っていたと思います。警戒心ゼロで、欲望のままに暴れ回る“赤鬼”みたいでしたね」

 母・恵子さんは基本的に恩蔵さんを自由に育ててくれた。いろいろなことをやらせては何に興味を示すのかをじっと観察していたという。

 恩蔵さんが、“安全基地”を初めて実感できた思い出は小学4年生のとき。塾の日は母親のピアノ教室にランドセルを置き、鞄を持ち替えて塾に向かっていたが、その日はピアノ教室が閉まっていた。運悪く教室の鍵を忘れて中にも入れない。

 母親は待てど暮らせど来なかった。塾に行けないまま、電車が駅に着くたび母の姿を探しに行くが、そのうち辺りは真っ暗に。8時になり9時になる。10時になったとき、ようやく母親が兄と一緒に駅から出てきた。母親は暗闇の中に立つ娘を認めたとき「なんで、ここにいるの?」と驚いた。恩蔵さんが事の次第を話し、

「私、ここで待ってたら絶対会えると思ったんだよね」

 と言うと、母親は涙をポロポロ流し、ごはんも食べず、暗い中1人で待っていたのかと泣き崩れてしまった。母親は兄の中学生活で必要なものを買いに都内に出かけ、友達と食事し、娘の塾が終わる時間に合わせて帰ってきたのだ。

「私は涙の意味が全然わからなかったんだけど、私のことをすごく大事に考えてくれていると感じたことを強烈に覚えています。母にこんなに守られているんだって。絶対的安全を実感した最初の体験かもしれません」

友人の裏切りから人間不信に

 恩蔵さんは画家になる夢を持っていたため、美術系の中学を受験したのだがうまくいかず、別の中高一貫校に進学した。だが、ここでつらい出来事に直面する。中学時代に交換日記をしていた相手の子が、クラスメートに日記を見せていたことが発覚したのだ。

 ショックで人間不信になり、人にどう見られているのか必要以上に気にするようになっていく。言いたいことが言えなくなり、赤鬼ぶりは鳴りを潜めた。また、その学校が進学校だったので、高校生になると多くの生徒が受験モードに。恩蔵さんはそれについていけなかった。

「大学に入れなかったら、私の将来はダメになっちゃうような気がして、怖かったんです。受験に邁進する同級生の中で、会話にもついていけなくなって、休みがちになり、保健室登校が増えました」

 母親は心配し、娘を精神科や鍼灸、マッサージなどに連れていった。だが、一向に改善せず、むしろ反抗的になっていく。出席日数が足りず、大学進学すら危ういという焦りもあったのだろう。

 八方ふさがりになった恩蔵さんはある日、居間で母親と口論になる。そのうち恩蔵さんは“私は終わったんだ”という気持ちになり、母親はやれることはすべてやった、私にできることは娘を抱き締めるしかない……と思ったのか、突然ハグしたのである。

「赤ちゃんのとき以来のハグでした。母親の安全基地を実感した2回目です。抱き締められながら2人で泣いていたら、不思議なことに、私、“なんか大丈夫だ”と思えたんです。自分がたとえ受験に失敗してすべてをなくしても、守ってくれる、最悪の状態の私であっても母は見捨てないで愛してくれているってことを実感できた。そうしたら、受験してみようかと思えて……。で、また受験勉強を始めて、なんとか大学に合格できたんです」

茂木健一郎氏に魅せられて

 上智大学では物理を専攻し、将来は科学者を目指していた。しかし大学院を探して、東京工業大学(現・東京科学大学)の説明会に行き、脳科学者の茂木健一郎さんの話を聞いたとき、人生が変わった。

「お話が強烈に面白かったんです。脳科学が明らかにする人間社会の真実みたいな分野に興味が湧いてきたんです」

 当時、数式だけで真実を追い求めることに疑問を感じていた恩蔵さんは、自分がやりたいのは、これだと思った。

「脳科学には、私が大好きな物理や科学、文学、さらには絵もつながっていると思ったんです。茂木さんに、絵を最近やっていないと言うと、『なんでやめちゃうの。やりたいことは全部やったらいいんだよ』と言われて。おかげで、欲望のままに動く赤鬼に戻れたんです(笑)」

 研究テーマを何にするかは研究者にとって重要な問題だ。判断に迷っていると、茂木さんに「いちばん苦手なことをテーマに選ぶといいよ。君の場合、感情とか」と助言された。確かに中学時代のトラウマ以降、自尊心が強くなり、他人からどう見られるのかをずっと気にしてきた。そこで感情や自意識をテーマに選び、博士論文を書くことにした。

 卒業後は研究者として、さらにテーマを絞る必要があるが、決めきれず、周囲からは“いつまでも研究室にいる謎の人”と見られるように。母親からも就職しなさい、結婚はどう?と心配された。気づけば、9年迷走していた。

 その間、茂木さんの話を本にまとめる仕事をしつつ、文章修業をした。自分にとっての切実な問題を科学しながら文章を書くという夢を持っていた恩蔵さんにとって、貴重な時間だったが、行き詰まりからは抜け出せないでいた。

母に寄り添い、認知症と感情を研究

 そんなときである、母親が認知症になったのは。恩蔵さんは図らずも、母親を介護しながら認知症における感情を見つめることになる。

「海馬の隣に感情をつかさどる扁桃体という部位があるんです。母の海馬が萎縮していたので、感情を動かして扁桃体を刺激すれば、海馬も刺激され、覚えられることはまだあるのではないかと考えました。それが料理であり散歩であり、もうひとつは旅行だったのです」

 青森・ねぶた祭、秋田の竿燈まつり、新潟・長岡花火、海外もハワイのキラウエア火山など、いろいろなところに行った。

 恩蔵さんは料理や旅行を一緒に楽しみつつ、一方では母親の行動、娘として嫌だと思ったことなどを記録し、それらが脳科学の視点からなぜ起きたのかを分析していった。あるときは文献をひもとき、あるときは脳科学者仲間にも母の情報を共有して議論した。すると不可解だった行動の理由がわかり、どう接すればいいのかが見え、心のモヤモヤも解消していった。

 例えば、娘である自分の誕生日を忘れてしまったことに、恩蔵さんはショックを受けた。

「子どもが生まれるということは、人生の中で最も感情が動く体験のひとつで、感情が動いた体験は忘れにくいとされているのに、母はなぜ忘れたのか……理解できなかったのです」

 行き着いたのは、日付(数字)は健常の人でも忘れやすいという捉え方。しかも「覚えている?」などとプレッシャーをかけると、ますます思い出せなくなってしまう。

 恩蔵さんの名前を「ふみこ」と間違えて呼んだことにもかなり衝撃を受けた。これに関しての考察はこうだ。

「“ふみこ”とは、親戚の人で、母が大事に思っている存在なんです。娘もふみこさんも大事なので、取り違えてしまったようです。本当に忘れられたわけじゃないということがわかりました」

 家族だけの在宅介護では難しいと考え、診断から3年たった'18年ごろからデイサービスの利用を始めた。だが、その矢先に母親が施設を抜け出し、約6時間行方不明になるという事件が起きる。

「理由は、なぜここに連れてこられたかを忘れてしまったからです。知らない場所だから、自宅に帰らなければと思ったようです」

 自宅に向かう道を歩いているところを見つけ、連れ帰ったが、後日談がある。

「父が時々利用するファミレスに行ったら、『この前、奥様が1人でいらしていましたよ。ずっと窓の外を眺めていました。ご主人が来られるのを待っていたのではないでしょうか』と。お金を持っていなかったので何も注文しなかったのに、何時間も待たせてくれたファミレスには感謝しています。母はかなり不安だったと思います。それにしてもひたすら待つ姿は、私が母を安全基地だと感じた小学4年生のときの自分とそっくりだなと思いました」

母の笑顔を取り戻した変顔合戦

 診断から6年目の'21年ごろ、恵子さんの認知症が重度になる。おのずと困り事も増えてきた。食べる意欲がなくなり、「これ食べてね」と言っても伝わらず、介助しなければ食べない状態で、食事に1時間かかることも。口を開けば、「もう嫌だね」というネガティブなことばかり。恩蔵さんは、かなり追いつめられていた。

 そんなとき、ケアマネジャーの門倉幸子さん(45)が鋭い疑問を呈してくれた。

「最近、必要な言葉だけをかけていませんか?」

「寝て」「これに着替えて」「食べた?」といった言葉だ。恩蔵さんが「必要ではない言葉というと?」と聞くと、門倉さんは即座に「恵子さん、このお花きれいですね」と語りかけた。すると恵子さんも「きれいだね」と反応した。

 門倉さんによれば、認知症の人にも感情の引き出しが残っているが、本人はその引き出しを開けられない。開く引き出しを探すのが、専門職や家族の役割なのだという。

「絢子さんは探究心が旺盛なので、私の提案を即実行してくれました。音楽をかけて一緒に踊るのがいいと言うとやってくれ、次に行くと報告がありました」(門倉さん)

 さて、恩蔵さんがいちばんの恐怖だった「認知症になると母は母でなくなってしまうのか」という疑念だが、見事に消えていった。

「最後まで母は母でした」

 恩蔵さんはそう断言する。

 母親の友人2人は定期的に、恵子さんを誘い、洋服を買いに出かけたが、「趣味や好みは認知症になっても変わらない」と教えてくれたという。一緒に出かけた美智子さん(仮名)が回想する。

「恵子さんが好きな洋服は、かわいい感じの、花柄で、フリフリのついたデザインのものなんです。一緒に買い物に行ったもう1人のママ友と、『恵子さん、絶対にこれ選ぶよね』と言っていたら、やっぱり選んだんです。買い物が終わったら、うちに来て早速買ったばかりの服を身にまとってファッションショーをしてくれました」

 かわいいネイルをしたこともあった。うれしそうな表情で指先の写真を撮らせてくれたという。

 言葉の理解が難しくなり、コミュニケーションをとるのも困難となり、恩蔵さんが精神的にもまいっていたときのこと。「生活に必要のない言葉」も思いつかず困り果てたとき、恩蔵さんはふと“変顔”を思いつく。人間は生後間もなく最初に覚えるのが“ものまね”だということを思い出したのだ。若いころに身につけた能力は衰えにくいことを知っていたので、思いっきり変な顔をしてみせた。すると恵子さんはその2倍ぐらい変な顔を返してくれた。

「おかしくておかしくて2人で爆笑しましたね。気持ちは確かに通じていた。その瞬間、ママには私を楽しませたいという気持ちが残っていたんだと感じました。人を楽しませたり、人の役に立ちたいとずっと思っている人なんだと」

大腿骨の骨折が引き金となって

 恵子さんは'23年1月、大腿骨の骨折が引き金となって体調を崩し、5月に亡くなった。實さんは最愛の妻を亡くしたショックで、最期の瞬間の前後数時間の記憶が飛んでしまったという。

 生きていれば結婚50周年、つまり金婚式になる半年後の11月に、恩蔵さんは父親を誘って、結婚式を挙げた大磯プリンスホテルに出かけ、食事をした。實さんが回想する。

「テーブルには女房の遺影を立てました。ホテルのスタッフが気を利かせて、遺影の前にワイングラスを置いてくれ、“3人”で乾杯しました……ありがたかったです」

 最後は言葉を詰まらせた。

 恩蔵さんは、その後も認知症当事者などと話しながら、母親と過ごして感じたことがほかの人にも当てはまるのかといったことを研究している。昨年12月には、若年性認知症当事者の丹野智文さんとの共著『認知症の進行を早める生活、遅らせる習慣』を出版し、当事者の感情、家族の関わり方などに迫った。

 医師による認知症情報が多い中、恩蔵さんは当事者の声や気持ちを脳科学の視点から発信する「代弁者」といえる。

「認知症の人たちの話を聞いていると、たとえ重度になってもやってみたいことはいっぱいあるんです。それを叶えるには、家族が“安全基地”になることが大切です。その人がやってみたいと思うことを支える。その“自由”を確保できたらいいですね」

 とはいえ、いざ実行に移そうとすると簡単ではない。

「大好きな人だからこそケガをさせないために守りたくなって過干渉になりがちです。私も何度もそうなりかけたり、気がつくとなっていました。でも失敗するのは仕方ないと思うんです。本当はしないほうがいいけど、ケンカするのも無理はない。でも最終的には、認知症の人が失敗しても安心して戻っていける場所を確保してほしいと思います」

 恵子さんは自分が認知症になった結果、娘がテーマを見いだし、認知症当事者や家族が救われる研究に役立てたことを喜んでいるに違いない。

<取材・文/西所正道>

にしどころ・まさみち 奈良県生まれ。人物取材が好きで、著書に東京五輪出場選手を描いた『東京五輪の残像』など。2015年、中島潔氏の地獄絵への道のりを追ったノンフィクション『絵描き・中島潔 地獄絵一〇〇〇日』を上梓。

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  • 個人的に、信長の時代から変わらず、身体的には50歳以降は「ありがたいもの」だと思う。毎日を、ありがたく生きていけたら最高だな。
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