
木村和司伝説〜プロ第1号の本性
連載◆第18回:水沼貴史評(8)
JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。
木村和司は、水沼貴史にとって日産自動車時代からの先輩ではあったが、横浜F・マリノスの監督就任においては、水沼が先輩だった。
2006年、シーズン途中からのわずかな期間とはいえ、水沼がF・マリノスの指揮を執ったのに対し、木村が監督になるのは、それから4年後の2010年のことである。
「和司さんをそこに置かなきゃいけないというか、座らせなきゃいけない、みたいなことは、僕もずっと思っていたから......。(木村が監督に)なるって決まったときは、よかったって思ったんです」
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そう言うと、水沼は「僕もちょっとやったけど、和司さんもあの場所にいてほしいなというのはずっと思っていたので」と、木村への気持ちを何度か繰り返した。
あの場所にいてほしい――。水沼がそんな思いを長く抱えていたのは、「和司さんは日産の象徴だから」に他ならない。
「日産からマリノスになり、これだけたくさんのファンに囲まれるようなクラブになっていって、それを作り上げてきた人が『なんでそこにいないの?』っていうのは、ずっと思っていて......。和司さんはわがままですけど(苦笑)、ファンはたくさんいるし、『木村和司が一回はそこに座んなきゃダメでしょ』っていうことを、僕はずっと思っていた。『まずは一回座らせなきゃいけない』『一回やらせてあげようよ』って思っていたから」
水沼と同じように考えていた人は、きっと少なくなかったのだろう。現役引退から16年、"ミスターマリノス"の監督としての帰還はJリーグの大きな話題となった。
だが、結末を先に言えば、横浜での"木村政権"はわずか2シーズンで終わりを告げた。タイトル獲得こそなかったとはいえ、J1での順位は8位、5位と、監督の責任が問われるほどに酷い成績ではなかったにもかかわらず、である。
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「練習とかはヤス(コーチの樋口靖洋)に任せていた、みたいなことは(木村から)聞いたことがある」と言う水沼は、「たぶん和司さんは、マネージメント型(の監督)で置かれたんだろう」と推測する。
しかしそうであれば、木村の理解者を周りに置くべきだったのではないか。そうも考える水沼は、木村の監督就任が決まったときには、「自分もコーチに呼ばれるかなと思った」と振り返り、残念がる。
「ある意味、象徴的な存在でよかったんじゃないですかね。それこそ、(マンチェスター・ユナイテッドで27シーズン、監督を務めたアレックス・)ファーガソンみたいな。周りがしっかり支えていたら、今頃、まだ(木村が監督を)やっていたかもしれないですよね」
木村と水沼が現役を引退し、すでに30年以上が経過した。
だが、水沼のなかで、木村とともにプレーした日々の記憶は決して色あせてはおらず、当時を「めちゃ楽しかったですね」と振り返る。
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無口な天才肌で、人を寄せつけない雰囲気もある先輩だったが、一緒に対話を重ね、それをプレーに落とし込んできた後輩にとっては、「サッカーの話を深くするのは、すごく面白かった」。
それが水沼貴史から見た、木村和司という特別な存在だった。
しかし、技術でピッチ上を支配することのできた木村が、常々口にしていたのは少々意外な言葉であり、だからこそ、水沼は強く印象に残している。
「最後は気持ちよ」
思いのままにボールを操る天才プレーヤーは、それでも自分の才能にあぐらをかくことがなかった。
それどころか、サッカーという競技の本質を極めればこそ、そんな境地にたどりついたのかもしれない。
水沼が懐かしそうにつぶやく。
「テクニカルなことや、ロジカルな話も結構するんだけど、でも、最後は気持ちだって、若いヤツにもず〜っと言ってました。それはすごいなって思います」
(文中敬称略/つづく)
木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年〜2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。
水沼貴史(みずぬま・たかし)
1960年5月28日生まれ。埼玉県出身。浦和市立本太中、浦和南高で全国制覇を経験。その後、法政大学を経て、1983年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。金田喜稔、木村和司らとともに数々のタイトルを獲得し、黄金時代を築く。ユース代表、日本代表でも名ウイングとして活躍した。1995年、現役を引退。引退後は解説者、指導者として奔走。2006年には横浜F・マリノスの指揮官を務めた。国際Aマッチ出場32試合7得点。

