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「退職金があるから、この会社を辞められない」――大企業に勤める40〜50代なら、一度はそう感じたことがあるのではないだろうか。
【解説】退職一時金を「廃止」する会社は増えるのか 優秀人材が逃げる給与シフトの成否
その退職一時金を、廃止する企業が出始めた。王子ホールディングス(以下、王子HD)は2026年春入社以降の社員を対象に退職一時金を廃止し、その分を基本給に上乗せすると発表した(参照:日本経済新聞「王子HDが退職一時金廃止、基本給に上乗せ 26年春入社から」)。
大企業での廃止は極めて異例だ。厚生労働省「令和5年就労条件総合調査」によれば、過去3年間に退職一時金制度を廃止した企業は全体の約0.1%。従業員1000人以上の大企業では事例すら確認されていなかった。
これは枝葉の制度変更ではなく、人事戦略の根幹に関わる話だ。今回は3000人以上のシニアのセカンドキャリアを支援してきた立場から、退職一時金の廃止が企業と社員の双方にどのような影響を与えるのかを解説する。
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●メンバーシップ型の終わりを告げるシグナル
退職一時金廃止の背景を読み解くには、まず日本企業の雇用モデルの変化を押さえる必要がある。
従来の日本の大企業は「メンバーシップ型」の雇用を前提としてきた。終身雇用を基盤に、社員を長期間囲い込み、定年まで勤め上げた者に手厚い退職金と企業年金を支給する。このモデルにおいて、退職一時金は単なる報酬ではなく、社員を長くつなぎ止めるための施策として機能してきた。
しかし今、多くの企業がジョブ型への移行を進めている。「終身雇用はもう維持できない」というメッセージだ。
その背景には複数の要因がある。ピラミッド型の年齢構成が崩れ、シニア世代を定年後も雇用し続ける体力がない企業も増えてきた。政府が進める70歳までの雇用延長の義務化も視野に入る中で、経済界からは「これ以上、人材を抱えるのは無理だ」という声が上がっている。トヨタ自動車の豊田章男氏も、2019年の日本自動車工業会の会長会見にて「終身雇用を守っていくのは難しい局面に入ってきた」と述べている。
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退職一時金の廃止は、こうした構造変化の中から出てきた決断といえる。
●「よく分からないもの」に価値を感じなくなった社員
退職一時金には、もう一つの構造的な問題がある。制度が複雑すぎて、社員自身がいくらもらえるのか正確には把握していないという点だ。
三井住友トラスト・資産のミライ研究所の調査によると、自身の退職金水準を把握していない人は62%に上る。王子HD自身も「制度が複雑で透明性が低く、モチベーションの向上にもつながっていない」と、日本経済新聞の取材に対して回答している。
筆者の実感としても、これは間違いない。大手企業のビジネスパーソンに退職一時金の計算方法を聞いてみてほしい。ほぼ全員が「分かりません」と答えるはずだ。
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計算方法には開示義務があるため、確認することは可能だ。しかし、その内容はアクチュアリー(保険数理士)でなければ理解できないほど複雑なことも多い。
にもかかわらず、社員はなんとなく「部長クラスまで勤め上げれば、退職金は3000万〜5000万円になるらしい」という曖昧(あいまい)な期待を持っている。先輩の話やWebの情報から、漠然と大きな金額をイメージしている。
この「曖昧さ」こそが、実は人材定着のカギだった。退職一時金には「掛け目」と呼ばれる仕組みがあり、定年まで勤めれば100%だが、途中で辞めると大幅に減額される。しかも減り方は比例ではなく、早期に退職すると大きく損をする構造になっているケースが多い。
「早く辞めたら損をする。でもいくら損するのかは、正確には分からない」。この不透明さが「なんとなく残った方が得」という判断を生み、結果的に社員をつなぎ止めてきたのだ。
●退職一時金の廃止、企業側にはどんなメリット?
社員定着のカギとなる退職一時金をなぜ、廃止するのか。企業側のメリットは、大きく3つある。
1つ目は、採用競争力の強化だ。退職一時金の原資を基本給に回せば、初任給を大幅に引き上げられる。王子HDは初任給を前年比約1割増の27万2000円〜28万円に設定した。マイナビの調査によれば、企業選択で「給料の良い会社」を重視する学生の割合は過去最高を更新しており、将来の退職金より月給を重視する若年層には刺さる戦略だ。
2つ目は、中途採用との整合性だ。王子HDでは中途採用比率が2021年度の約1割から2025年度には約5割にまで急増している(参照:日本経済新聞「王子HDの退職一時金廃止、「終身雇用前提」見直し」)。勤続年数が長いほど得をする退職一時金の制度は、中途人材にとって相対的に不利に働く。制度を廃止してフラットな報酬体系にすることで、採用市場での競争力を高めることができる。
3つ目は、運用リスクの解消だ。退職一時金は企業が内部で積み立て、将来の支払いに備える。しかし超低金利が続いた30年間、積立金の運用では思うように増えず、約束した金額との差額を企業が補填(ほてん)し続けてきた。企業年金も同様の構造で、長寿化によって支払い期間が想定以上に延びるリスクも重なっている。こうした財務リスクから解放されること自体が、経営判断としては合理的だ。
メリットもあるが、リスクも伴う。最大のリスクは、若手の離職加速だ。退職一時金がなくなると、報酬の比較が極めてシンプルになる。月給35万円の今の会社と、月給40万円の転職先。退職金がなければ、5万円の差がそのまま判断基準になる。曖昧さが消えた分、転職のハードルは確実に下がる。特に、優秀な人材ほど転職市場での選択肢が多い。報酬が明確に比較可能になった瞬間、引き留める材料はなくなってしまう。
●退職金なき時代のセカンドキャリア
社員個人への影響も大きい。40〜50代で早期退職を選ぶ人の中には、退職金を「軍資金」として次のキャリアに踏み出す人も少なくなかった。退職金で住宅ローンを完済し、残りを独立や起業の元手にする。そういった資金計画を前提にセカンドキャリアを考えていた人にとって、退職金の縮小は大きな打撃だ。
しかし、これからは退職金に頼らない前提で人生設計を組み直すしかない。その分、月給が上がっているのであれば、自分で貯蓄し、自分で資産運用をする。NISAやiDeCoといった制度を活用しながら、自律的に資産を形成していくことが求められる。
若い世代にとっては、むしろポジティブな変化かもしれない。金額が見えにくい将来の約束より、今手元に入る報酬の方が明確で、自分でコントロールできる。資産運用のリテラシーさえあれば、退職金がなくても十分に備えられる時代だ。
●会社は守ってくれない
退職一時金の廃止は、一つの制度変更にとどまらない。終身雇用という日本型雇用モデルが本格的に終わりを迎えつつあることを象徴している。
会社が社員の人生を丸ごと保証する前提は変わりつつある。年金も退職金も、かつてのように企業が手厚く面倒を見てくれる時代ではなくなってきた。国の年金制度も将来的に給付水準が下がる可能性が指摘されている中で、かつてのように会社や国に頼り切ることは難しくなっている。
だからこそ、自分のキャリアと資産は自分で守る。シニアも若者も、そうした意識が必要な時代になりつつある。
人事担当者にとっては、退職金制度の見直しを「コスト削減」や「トレンドへの追随」としてではなく、自社の人材戦略全体の再設計として捉えるべきだろう。メンバーシップ型を続けるのか、ジョブ型に移行するのか。その判断次第で、退職金制度の最適解は変わってくる。
●著者プロフィール:市原大和
慶應義塾大学理工学部卒業後、東京海上日動火災保険で15年間勤務し、2022年に株式会社BEYOND AGEを設立。これまでシニア3000人以上のキャリア支援実績を有する。
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