限定公開( 17 )

ヤマハと聞いて、どんなイメージが浮かぶだろうか。バイクメーカーという印象を持つ人もいるかもしれないが(バイク事業などはヤマハ発動機が担う)、やはり音楽や楽器のトップブランドとして知られている。
世界的にも高い評価を得るヤマハのピアノや電子楽器。子どものころに「ヤマハ音楽教室」に通っていたという人も多いかもしれない。
“音の楽しみ”を届けてきた「音楽のヤマハ」が、「音を良くする」のではなく、「あえて聞こえにくくする」サービスを提供していた。
こう聞くと、一瞬、不思議に思う読者もいるのではないか。「あえて聞こえにくくする」とは一体、どんなサービスなのか。聞こえにくくすることで、ヤマハはどのような価値を提供しようとしているのか。
|
|
|
|
●日常に意外と多い「聞かれたくない」シーン
在宅勤務が定着し、久々に出社したオフィスで、数週間ぶりに顔を合わせた同僚と立ち話をしていると――。やけに静かなオフィスに自分たちの声が響き、やや気まずくて口を閉ざしてしまう。
あるいは病院の受付をしているとき。体の症状など、込み入った会話の内容が待合室にいる人にまで漏れているようで、あまり良い気持ちがしない。
日常において、こうした「聞かれたくない」シーンというのは少なくない。こうした場面で、ヤマハの「あえて聞こえにくくする」技術が力を発揮する。
ヤマハが提供する「スピーチプライバシーシステム」は、その名の通り、会話の内容が第三者に漏れ聞こえてしまうことを防ぎ、プライバシーや機密情報を守るための製品だ。病院や薬局、企業の会議室、シェアオフィスなどに導入されている。
|
|
|
|
「音を消す」のではなく、「内容を聞き取りにくくする」のがポイントだ。
こう聞くと「ノイズキャンセリング」を思い浮かべる人もいるだろう。
ノイズキャンセリングは、空気を振動させながら波として伝わる音に対して、正反対の波形をした音を作り、それらをぶつけ合うことで音を打ち消す技術を指す。イヤフォンなど限定された空間で広く活用されているが、人の話し声のように刻々と変化する音を、広い三次元空間で打ち消すことは技術的に簡単ではない。
そこで、ヤマハのスピーチプライバシーシステムが採用するのは「サウンドマスキング」という概念だ。これは「音を消す」のではなく、漏れ聞こえる会話などに特殊な音を被せることで、「音の意味を分からなくする」という考え方だ。音をカモフラージュすることで、比較的小さな音量でも会話の内容を不明瞭にできる。
●ヤマハならではの工夫
|
|
|
|
スピーチプライバシーシステムでは、この「被せる音」にヤマハらしい工夫が凝らされている。
ヤマハでは、老若男女、複数人の声をあらかじめサンプリングし、それを切り刻んだり逆再生したりすることで、それ自体は意味を持たないが、人が話しているような「情報マスキング音」というものを独自に作っている。これに森や川のせせらぎ、街の雑踏などといった環境音を組み合わせて流す。(※実際の音声は最終ページで確認できる)
「サウンドマスキング自体、決して『いい音』ではない。だからこそ、小さな音量でもしっかり効果を出し、不快感をできるだけ抑えることを目指した」
商品企画を担ったヤマハミュージックジャパンの金子勇さんは、こう説明する。
「それなら街中の雑踏を録音して流せば自作できるのでは?」
こうした疑問を投げかけられることもあるという。しかし、それでは雑踏の中の言葉や単語の意味そのものが気になってしまい、会話が阻害されてしまう。だからこそ「人の声らしさ」は残しつつも、言葉としての「意味」は持たせない。絶妙なバランスが、この技術の特徴だ。
●コロナで一変したオフィス環境
スピーチプライバシーシステムを発売したのは2011年。当時、ある不動産デベロッパーから「会議室の間仕切り壁の性能が低くて声が漏れてしまう」という相談を受けたことが出発点だったという。
その際、北米では以前から利用されていたサウンドマスキングという考え方を提案したことをきっかけに、国内でもニーズがあるのではないかと検討を始めた。
事業化にあたって最初にターゲットとしたのは、個人情報を扱う病院や薬局だった。これらの場所では、診察内容や薬の説明など、第三者に聞かれると困る会話が日常的に交わされている。
ところが販売を続ける中で、想定外の需要が見えてきた。
企業でも、役員会議や人事面談、顧客との商談など、外部に漏らしたくない会話は数多く存在する。金融機関や法律事務所など、さまざまな業種から相談が寄せられ、現在では企業向けの導入が大きな割合を占めるようになったという。
さらに、コロナ禍を境に市場環境はより大きく変化した。
リモートワークの普及によってオンライン会議が日常化すると、オフィスでは至る所でWeb会議が開かれるようになった。オンライン会議では、相手に声を届けようとして自然とボリュームが大きくなりやすい。一方で、出社率が以前より低くなったことでオフィス自体は静かになり、人の話し声がかえって目立つようになった。
また、近年はコミュニケーション活性化を目的に、壁を減らしたオープンオフィスが増えている。遮音する構造そのものが少なくなったことで、「会話が漏れる」「周囲の会話が気になって仕事に集中できない」という課題も広がった。
実際にコロナ禍以降、問い合わせが急増し、デモ機の貸し出し件数は、毎年1000件を超える状態が続いているという。
●楽器づくりで培った「感性の研究」を生かす
先述の通り、サウンドマスキングの概念自体はかつてからあった。だとすれば、ヤマハならではの強みは、どこにあるのだろうか。
その一つとして担当者たちは、長年培ってきた「音づくり」の知見を挙げる。
例えば、楽器や音響機器では、人が「心地よい」と感じる音を追求してきた。一方、防音室やサイレント楽器では、音を外へ漏らさない技術も磨いてきた。
「感性の研究を長年続けてきたことが生きている」(金子さん)
人はどんな音を心地よいと感じるのか。逆に、どんな音に不快感を覚えるのか。同じ音でも、人によって聞こえ方や心理的な印象は異なる。そうした人の感じ方まで含めて研究してきた蓄積が、このサービスに反映されているという。
また、このサービスに込めた本質的な思いとして、「コミュニケーションをもっと活発にするために使ってほしい」と金子さんは話す。
企業がオフィスへの出社を促す理由の一つは、偶発的な会話や雑談から新しいアイデアが生まれることへの期待だ。しかし、会話が周囲に聞こえてしまう環境では、人は無意識のうちに話すことをためらってしまう。
今後はオフィスに限らず、教育現場での導入も目指している。
進路相談室やカウンセリングルーム、不登校支援など、教育現場には周囲に聞かれたくない会話が交わされる場所が少なくない。集中して勉強できる環境づくりという観点からも、可能性があると考えている。
●長年培ってきた知見が財産
ヤマハといえば、やはり「音楽のヤマハ」が想起される。
一方で、「音や音楽の技術が、人々の課題解決や幸せにつながっていくという意味では、この商品もヤマハらしい製品だと感じる」と金子さんは話す。
「音を出す」商品を通して、良い音を追求してきたヤマハ。同時に「音を聴く」のに適した環境づくりに取り組んできた。
同社が持つのは「楽器メーカー」という肩書だけではないのかもしれない。人が音をどう感じ、どうすればより良い音が聴ける空間を生み出せるのか。長年培ってきた音に関する知見が、こうした事業の土台になっている。
(濱川太一)
|
|
|
|
|
|
|
|
Copyright(C) 2026 ITmedia Inc. All rights reserved. 記事・写真の無断転載を禁じます。
掲載情報の著作権は提供元企業に帰属します。