
<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
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ロサンゼルス郊外にあるセンチネラ病院にはたびたび訪れた覚えがある。整形外科の名医で、ドジャースのチームドクターだった博士フランク・ジョーブ(14年没)に取材を試みるためだ。
その名は当時も日本に伝わっていたが、広く波及するほどでもなかった。野球、アメフトなどのスポーツ競技で痛めたひじの靱帯(じんたい)に、他の部位から摘出した正常な腱(けん)を移植した。
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それがジョーブが考案した通称「トミー・ジョン(TJ)手術」だった。その後、正式名でいう「内側側副じん帯再建術」は進化しながらスポーツ界に浸透していく。
ジョーブが初めてひじのじん帯再建術を施し、手術名の由来になった投手トミー・ジョン(ドジャース、ヤンキースなど)が死去したニュースに触れたのは、拙者が熱海に滞在しているときだ。通算288勝231敗。その左腕は約1年半のリハビリ後に復帰し、46歳で引退するまで164勝を記録した。
日本で初めてTJ手術を受けたのは三井雅晴(ロッテ)だが、3年後に現役引退に追い込まれた。その成功例として語り継がれるのが、ロッテのエース村田兆治だ。
右肩痛に襲われた男にとっては、わらにもすがる思いだった。何十もの病院に駆け込み、整体、針、電気など、あらゆる治療を試みたが、痛みの原因は分からずじまいだった。
座禅、滝行にも臨んだが、村田は「回復する兆しがなかった」と絶望の淵に立たされる。少しでも本人を知るものからすると、言い得て妙の「昭和生まれの明治男」にはなおさらだ。ストレートすぎる村田が行き着いた先が、投手生命をかけて海を渡ることだったのだ。
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1983年にジョーブが執刀した手術は成功した。ただ極めて重要なのは術後の“スローイングプログラム”が成果を上げるかどうか。肩、ひじにメスを入れるなどタブーな時代に、村田は見事にカムバックを果たした。
35歳のシーズンになった84年終盤に現場復帰。85年は開幕から11連勝するなど、シーズン17勝で「カムバック賞」を受賞する。“マサカリ投法”と称され、通算215勝177勝33セーブのプロ野球人生だった。
壮絶な生きざまは、ロッテ職員で場内アナウンス係だったフリーライターの鉄矢多美子からも逸話を聞かされてきた。キューバ野球の内情については、山本英一郎(故人、元日本野球連盟会長)はさておき、日本で鉄矢の右に出るものはいない。
そして22年に鬼籍に入るまでの村田は、試合することも限られる現状に心を痛めて「全国離島交流中学生野球大会」を提唱して実現にこぎつけた。“離島甲子園”は村田の意志を継承している。
村田をもっともよく知る日刊スポーツOBで、先日も偶然出くわした元佐渡市長・三浦基裕は、著書『村田兆治という生き方 マサカリ投法、永遠なれ』(ベースボール・マガジン社)に生前の村田から投げかけられた言葉をつづっている。
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「今の子供たちは、ほとんどが、ランナーがいない場面でもノーワインドアップで投げるんだよ。試合に勝つために、どうしてもコントロール重視の指導になってしまうんだろうけど、せめてこの年代では大きく振りかぶって、思い切って投げ込んでほしいんだよ。それが将来、大きく成長させる力になるんだから。なんか子供のころからこぢんまりしてしまうのは寂しくてしょうがないなぁ」(原文のまま)
当時TJ手術の成功率は1%といわれたが、今では復帰も含めて90%を超えるという。不死鳥のごとく復活を遂げた村田兆治も、日米の架け橋になった1人と言えた。(敬称略)
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