最年少ダービージョッキーの「帰郷」から20年/島田明宏

0

2026年08月20日 21:00  netkeiba

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

netkeiba

▲作家の島田明宏さん
【島田明宏(作家)=コラム『熱視点』】

 今年は、最年少ダービージョッキー・前田長吉の遺骨が「帰郷」してから20年の節目である。青森県八戸市是川の生家で遺骨の「返還式」が行われたのは、2006年7月4日のことだった。長吉が旧満州に出征してから62年の歳月が流れていた。

 当時の取材メモを読み返すと、話を聞かせてもらった人の多くが亡くなっていることにあらためて気づかされる。もっと聞きたかったとも思うし、あのとき会うことができて幸運だったとも思う。

 そして、この稿がアップされる8月20日は、81年前、南樺太の真岡(まおか)で「真岡郵便電信局事件」が起きた日でもある。

 1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾したことが玉音放送で国民に伝えられた。

 その5日後の8月20日、ソ連軍が南樺太西海岸の真岡に上陸し、日本軍との戦闘になった。真岡郵便局では、電話交換業務をつづけていた女性12人のうち9人が服毒して亡くなった。「九人の乙女」と呼ばれる女性たちだ。

 8月15日は「終戦の日」であるが、その日を境に、すべての戦闘が終わり、兵士たちが帰還できたわけではない。

 前田長吉も、帰ることのできなかったひとりである。

 長吉は1943年、女傑クリフジで日本ダービーを勝った。20歳3カ月。83年後の今も破られていない最年少記録だ。クリフジはオークスと菊花賞も勝ち、ほかのどの馬も成し遂げていない「変則三冠」を制覇した。

 戦火が激しさを増した翌44年、競馬は馬券を売らず観客も入れない「能力検定競走」として行われた。そうしたなか、長吉は中山4歳牝馬特別(のちの桜花賞)を勝ってクラシック4勝目をマークする。そして、9月30日、<騎手ニ任ス 三級俸ヲ給ス>と記された騎手免状が交付され、見習騎手の「見習」が取れた。

 ところが、その2週間後の10月14日に臨時召集され、戦地に赴くことになる。故郷でしばし家族や親戚と過ごしたのち、第107師団輜重兵第107連隊の一員として旧満州に出征した。部隊ではダービーを勝った騎手として知られ、戦友には、

「自分は尾形厩舎にいます。帰ったら競馬場に招待します」

 と話していたという。

 長吉は旧満州で1945年8月15日を迎えた。

 真岡郵便電信局事件からさらに3日後の8月23日、スターリンはソ連国家防衛委員会決定第9898号に署名した。「日本軍捕虜50万人の受け入れ・配置・労働使役について」と題されたもので、労働に適する日本人捕虜50万人をソ連やモンゴル各地へ移送し、労働に使役することなどが定められていた。

 旧満州などからの移送は9月に始まった。

 長吉もシベリアへ送られた。

 12月からチタ州のブダラ収容所で強制労働に従事し、翌46年1月、同じチタ州のボルトイ収容所に移動。2月28日、そこで戦病死した。5日前に23歳になったばかりだった。

 大きな才能が戦争で失われた。馬は貴重な軍需資源で、「活兵器」と呼ばれていた。戦前、戦時中の競馬は、馬匹の能力向上や生産奨励という国策と密接に結びついていた。長吉はそのなかで台頭したわけだから、もともと戦争とは切り離せないところにいたのである。

 戦争のための軍馬の改良や馬匹の生産奨励が国策として進められ、そのなかで競馬も発展した――そう考えると複雑だが、実際、戦前の競馬を統括していた日本競馬会は、戦後、GHQの占領政策のなかで解散に追い込まれた。そして、1948年から国営競馬となり、現在のJRAへとつながっていく。

 また、史上初の三冠馬セントライトなどを生産した小岩井農場も、GHQの占領政策によって農地の一部を解放し、1949年に育馬事業を廃止している。馬づくりは国力増強につながる動きとみなされていたのだ。

 長吉の兄の孫で、前田家当主の前田貞直さんから連絡があり、先週、RAB青森放送の「RABニュースレーダー」で、長吉の生涯と、20年前の遺骨返還が取り上げられたとのこと。取材に来たRABの人は泣いていたという。

 競馬の歴史を調べていると、戦争と競馬がさまざまなところで結びついていたことが見えてくる。

 後世に生きる私たちにできるのは、そうした事実を知り、忘れずにいることなのだろう。

    ニュース設定