かけがえのない 「リトアニアの良心」 【沼野恭子✕リアルワールド】

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2026年08月29日 14:40  OVO [オーヴォ]

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トマス・ヴェンツロヴァ 櫻井映子氏提供

 7月末、リトアニアが誇る世界的な詩人トマス・ヴェンツロヴァの『自選詩集』(櫻井映子訳、東京外国語大学出版会)が刊行された。1937年、故国のクライペダに生まれたヴェンツロヴァは、ヴィルニュス大学を卒業した後、ソ連体制下で人権擁護活動に加わり、亡命を余儀なくされた。米国に渡ってイェール大学で教職に就き、約40年過ごした後に帰国。現在はリトアニアの首都ヴィルニュスで暮らしている。


 本書の特徴は、第一に、リトアニア語から直接訳されていること、第二に、訳者である櫻井氏の依頼に応じてヴェンツロヴァがみずから自作詩を73篇選りすぐったこと、第三に、それぞれの詩作品に著者が背景説明を付していること、そして第四に、越境と思索に彩られた詩人の生涯を詩作品でたどることができることだ。ヴェンツロヴァの作品が初めて本格的に日本に紹介されるというだけでなく、著者自身の選定によるオリジナル詩集であるという点で実に画期的なのである。

 共産主義を信じる若者だったヴェンツロヴァがその信条を翻したのは、1956年に起きたハンガリー動乱がソ連軍によって鎮圧されたためだという。このときのことを彼は「機関銃の鉛で印づけられて/殺されるのはもう初めてではない/生きるのはもう初めてではない」と詩に綴っている。

 その後、ロシア語やポーランド語などが堪能な多言語話者のヴェンツロヴァは、1960年代にモスクワでロシアの詩人たちと交流し、エストニアのタルトゥ大学で記号論を学び、やがて反体制組織「リトアニア・ヘルシンキ・グループ」の創設メンバーとなった。亡命を覚悟した頃、ヴィルニュスとの別れをこう詩にしている。「君を失えないのに/君を失うしかない/灯心を吹くようにそっと/石畳の街路を消そう」

 1977年の出国に際しては、リトアニア系ポーランド人の亡命詩人チェスワフ・ミウォシュや、ロシア出身の亡命詩人ヨシフ・ブロツキーらの支援があったという。亡命後ヴェンツロヴァは、イェール大学でポーランド文学やロシア文学を講じるとともに、リトアニア語で詩作を続けた。つねに「詩の中には、些細なものなどないのだと/むしろ、砂粒は小さければ小さいほど/川の流れすら変えられる力を持つのだと」学生たちに伝えようとしたと綴っている。

 リトアニアに帰還してから、来し方を振り返って彼は言う。「何より大切なのは/死ぬまで、いや、死んだ後ですら、羞恥心に苛まれるようなことを、/やらかさないよう努めてきたこと」
 ここには、偏狭な愛国的ナショナリズムに警鐘を鳴らしてきた「リトアニアの良心」ヴェンツロヴァの矜持が感じられる。高邁にして理知的な詩人の「詩で綴られた自叙伝」である、装幀も美しい本書は、殺伐とした砂漠のような現代世界における、かけがえのない「砂粒」以外のなにものでもない。

ぬまの・きょうこ 1957年東京都生まれ。東京外国語大学名誉教授、ロシア文学研究者、翻訳家。著書に『ロシア万華鏡』『ロシア文学の食卓』など。

【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No.32からの転載】



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