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高市早苗政権は8月5日、食料品の消費税率を2027年4月から2年間限定で8%から1%に引き下げる方針を閣議決定した。肝いりとして掲げていた消費減税がついに動き出した一方、「なぜ2年限定か」「なぜ1%か」など疑問は尽きない。憲政史研究家の倉山満氏は「徴税とはカツアゲである」と言い切り、原則と例外を取り違えた政治の構造的な問題を問い直す(以下、倉山満氏による寄稿)。
◆とにもかくにも消費減税が実現した
減税が実現した。
長年、本欄では増税原理主義者を批判し続けてきた。増税原理主義者とは、いかなる経済状況でも増税をしようとする者のことだ。つい最近まで、減税を主張する者は共産党かMMTとの誹謗中傷を受けてきた。
それが今や、消費減税が実現した。とにもかくにも。
なぜ、2年間限定なのか。なぜ、食料品だけなのか。なぜ、0%ではなく1%への減税なのか。なぜ、景気に関係なく、2年後に絶対に戻すのか。疑問は尽きないが、とにもかくにも、「2年間食料品のみ消費税を8%から1%にする減税」が成立する見込みだ。
中途半端な減税でも、やらないよりやった方が良いのか。この減税が、やらなきゃ良かった減税になるのか。それは誰にも分からない。
令和9年4月1日から令和11年3月31日までの時限減税になる予定だが、令和10年夏に参議院選挙がある。高市早苗首相は、そこで増税延期を公約に選挙を戦うのではないかとの観測もある。口では「絶対に8%に戻す」とは言っているが。
2年で食料品のみ消費税を8%に戻しても良い(7%の増税である)経済状況になっていれば、それで良し。そうなっていなければ、減税を延期してもらわねば困る。しかし、それは公約違反を前提とした政治である。なぜ、これほどの支持で多数を得た高市首相が、公約破りを前提にした政治を行わねばならないのか。
◆安倍元首相が歴史に残る偉業は何もできなかった理由
かつて、安倍晋三元首相は、何度も「増税延期」を公約に選挙を戦い、熱狂的な支持で史上最長不倒政権を築いた。ただし、歴史に残る偉業は何もできなかった。なぜか?
霞が関の既得権益層にとって、怖くも何ともない政権だったからである。言ってしまえば、何年やってもらっても良かった。
安倍内閣の生命線は、景気回復である。ところが安倍元首相が財務省に言われるがまま8%への消費増税をやって、景気は腰折れ。あとは10%への増税延期で抵抗するしかなかった。自らの生命線である景気回復を断ち切ったのだから、強い政策など行えるはずがない。野党が弱すぎたから、長続きしたが、既得権を突破するような強い政策は行えなかった。何の実績も残せなかったのには理由がある。
しかも最初の増税延期の選挙の際は、「代表無ければ課税なし」とまで言い切って。これを聞いて、財務省は笑い転げたのではないか?
「代表無ければ課税なし」とは、アメリカ独立戦争のスローガンである。当時、イギリスの植民地だったアメリカは、「アメリカもアメリカ人も、イギリス国王の財産ではない。我々自身の財産を税として徴収するなら、我々の代表を選挙して議会に送らねばならない。ところが我々はイギリス議会に代表を送っていない。よって、我々自身の議会を持つために武器を持って戦う」と宣言、フランスの支援で独立を達成した。
◆徴税とはカツアゲである
この「代表無ければ課税なし」は我が国でも大日本帝国憲法に取り入れられ、日本国憲法でも財政民主主義が制度化されている。文明国の通義である。
安倍元首相の発言、原則が増税であり、例外的に増税を延期しているのである。事実、数年は粘ったが、いつの間にか「増税をやり抜く」と言い切るようになった。安倍応援団のネトウヨどもは「安倍さんは必ず増税を延期する。信じろ」などと批判を封じたが、粛々と増税した。増税したら、知らん顔。
高市首相も、経済が生命線なのは、また同じである。
ところで、安倍元首相も、高市首相も、原則と例外を取り違えている。政治家は、徴税を善だと思っていないか? そして、国民も納税を善だと思っていないか? 普通の日本人は、戸惑うだろうが、西洋では常識的な考え方である。
そもそも、徴税とはカツアゲである。事実、聖書でも「徴税人は天国に行けるか」が重要な論点である。キリストは「徴税人も天国に行ける」と断言したが、「博愛主義」「人間愛」の所以である。すなわち、徴税に手を染める者へも愛を差し伸べたので、博愛主義であり、人間愛なのである。
西洋では、このような文化的な背景があるので、「徴税は原則悪、例外的に認められる必要悪」との思想が徹底している。すなわち、「徴税が認められるのは、納税者の代表である選挙で選ばれた議会が認めた時だけ」である。
◆「増税が原則」「減税は例外」の政治
安倍元首相は「増税が原則」の政治を行ったし、いままた高市首相も「減税は例外」との政治を行おうとしている。減税の論議がかみ合わないのも、根本的には徴税を善だと思っているからに起因する。
西洋では元々、財産権は基本的人権の一つとされた。西洋では、貴族だけが人間であり、貴族の所領に住む領民は、家畜と同じように、貴族の財産であった。だから、生殺与奪の権は貴族が握っていた。十八世紀のヨーロッパで、貴族が自分の屋敷で使用人を殺しても、どこからも抗議は来ない。貴族が自分の財産である家畜を殺すのと、まったく同じだからである。
こんな社会だから、「人の形をして生まれた者には人としての権利がある」「誰の財産でもない、自分自身の財産を持つ権利が認められて初めて人間と言える」などと、「人権」「財産権」を発明せねばならなかった。
翻って我が国では幸い、歴史的に権力者が善良だった。人権だの財産権だの、本来はいらない国なのである。民を家畜のように扱ったら、権力そのものを取り上げられてきた国である。
そもそも、『古事記』『日本書紀』で語られる、仁徳天皇の民のかまどの国である。民が苦しんでいる時は、減税ならぬ無税! によって、経済を活性化させるのが国柄である。
何より、『万葉集』からして「民」と書いて「たから」と読んでいる。
最近の権力者の“カツアゲ”は目に余る。高市首相も財務省も、税とは何かを考え、民のかまどに煙を立てていただきたいものだ。
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【倉山 満】
憲政史研究家。1973年、香川県生まれ。救国シンクタンク理事長兼所長。中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中から’15年まで、国士舘大学日本政教研究所非常勤職員を務める。現在は、「倉山塾」塾長、ネット放送局「チャンネルくらら」などを主宰。著書に『13歳からの「くにまもり」』など多数。トランプ再来で揺れる世界を見通すための新章を追加したベストセラー『増補版 嘘だらけの日米近現代史』(扶桑社新書)が発売中