「働く廃人」「優しい死神」…44年間“プロの虚弱”として生きてきた文芸評論家が明かす笑いと涙の日常

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2026年10月07日 09:21  日刊SPA!

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特定の病気ではないのに体力がなく、体調不良に悩まされる“虚弱体質”に注目が集まっています。「44年間、プロの虚弱として生きてきた」と自称する文芸評論家の宮崎智之さんは、幼い頃から虚弱ぶりに悩まされてきたといいます。知られざる男性の虚弱の実態とは――。
※本稿は、『虚弱と歩く』(扶桑社)収録のエッセイ『虚弱という「横臥者」の視点』(宮崎智之)の一部を再編集したものです。

◆70代の母よりも体力がない40代の息子として

「顔色が悪い」という理由で職務質問をされたことがあるだろうか。僕はある。寝不足であろうと、なかろうと目の下にはクマが常にあり、社会人になってからは、会社の後輩が「優しい死神」、「働く廃人」というあだ名をつけてくれた。自著を刊行した際に、あるメディアから取材を受けて写真を撮られた。カメラマンさんが気を利かせてくれて、「目の下のクマを加工でなくしておきますね」と言ってくれたのだけど、クマを取ったら僕だとわからないという理由で却下になった。僕は悟った。むしろ僕の本体はクマなのだと。僕が消えてもクマだけ残る。もし空中にクマが漂っていたら、それを僕だと思ってほしい。

 四十四年間、プロの虚弱として生きてきた僕は、虚弱がゆえに、これまでさまざまな経験をしてきた。虚弱だと人はできるのに自分はできないこともたしかに多いのだが、世の中には虚弱だからこそ経験できることもあるのだ。虚弱にしか見ることができない世界は確実に存在すると思っている。

 ある年末、妻が子どもと犬を連れて一足早く実家の大阪に帰省した。僕は仕事があったので、大晦日に大阪の義両親の家にお邪魔することにした。すると同じ東京に住む母が一緒に大阪に行きたいと言い出した。ひとりで正月を過ごす予定だった母は、僕と一緒の新幹線に乗り、妻の両親に挨拶しに大阪まで行って、孫と正月を過ごしたいという。

 妻の実家に了承をとり、僕と母は品川から新大阪までのチケットを予約した。当日、ギリギリの時間まで仕事をして満身創痍だった僕は、新幹線で寝ようと思っていたのだが、隣に座った母がとにかく話しかけてくる。喋って喋って喋りまくって新大阪に着いた頃には、僕は酸欠と貧血が混ざり合ったような状態になっていた。大阪でも仕事ができるようにと資料をたくさん入れたスーツケースを引きずりながらヨロヨロと構内を歩いていた僕に母は、「あら嫌だ、ふらついているじゃないの。私が荷物を持つわ」と提案してくれた。七十代の母に、荷物を持ってもらおうとしている四十代の息子だったのだが、直前のところで思い留まって僕は母の提案を断った。でも本当は持ってほしかった。なぜならどう考えても体力は母のほうがあるのだから。あれだけ喋りまくっていたのに、母はなぜこんなにも元気なのだろうか。そして僕はなぜこんなにも体力がない人間なのだろうか。

◆日光で腫れ、風で遅刻。僕が「プロの虚弱」に至るまで

 一口で虚弱と言っても、それぞれにそれぞれの体質があって、十把一絡げにはできない。具体的な疾患を伴っている場合もあれば、なんとなくの不定愁訴を常に抱えているパターンもある。たとえば僕は、最後に測った握力が二十五ほどだった。身長が一七八センチあって比較的に大柄ではあるものの、腕力はまったくない。ライターの着火ボタンを押すのでも一苦労する。自然に対して身体が敏感で外気が苦手であり、長いこと外にいると熱が出る。日光を浴びると肌が赤く腫れるのだが、日焼け止めクリームを塗ると肌荒れする僕は、いったい前世でどんな業を背負ってしまったのか(赤子用の日焼け止めなら大丈夫なので、それを使っている)。風が強いと遅刻しがちである。これは風が強いのだから当たり前のことである。

 具体的には、僕は幼い頃から喘息だった。週二回は母が運転する車で病院に通っていた記憶がある。僕の将来を案じ、体力をつけるため水泳教室に通わされたこともあったが、中耳炎になってしまいすぐやめることになった。ある夜、いつものように喘息の症状が出た僕に、母はどこかで教わった民間療法を試してくれた。生姜のしぼり汁で浸したタオルを胸に当てるというものだ。しかし喘息はおさまらず、それどころか胸まわりの肌が真っ赤に腫れてしまった。「ごめんね」と母は悲しそうに謝っていたが、まったく悪くなく、いろいろ思案しては試してくれた母には感謝してもしきれないほどのご恩があると思っている。

 そんな喘息も身体が成長し、中学生からバスケットボール部で汗を流すようになってからは、幸いなことにほとんど症状が出なくなってきた。風邪をこじらせた時に少しだけ症状が出る程度になった。と思って安心していたのだが、四十代になってから、また頻繁に喘息の症状に悩まされるようになった。呼吸器科の医者が言うには幼い頃に喘息だった人は、加齢とともにぶり返すこともあるのだとか。今では月一回、必ず病院で診てもらうようにしている。

 ちなみに、元来の凝り性である僕は、虚弱であるにもかかわらずバスケットボールには真剣に打ち込んだ。中学生のときから専門書や理論書を読み込み、少しでもうまくなろうと必死だった。しかし、やはりその先には限界が待っていた。人の三倍くらい努力して、やっと人並みの選手になれるといった感じだった。それでも諦めずに練習したおかげで高校三年生になった頃には、ある人から「虚弱体質の中では東京都で十本の指に入る選手」と称された。僕にはその言葉が勲章だった。

 バスケットボールばかりやってまったく勉強をしてこなかった僕だったが、大学受験では部活で培った根性を発揮した。「人の三倍くらい努力して、やっと人並みの選手」だったのに、勉強では人と同じくらい努力すれば、人と同じくらい学力が伸びるという事実に衝撃を受けた。その経験は後の人生観に大きな影響を与えることになった。まさに虚弱体質だからこそたどり着いた境地だった。熱中して勉強したおかげで、なんとか現役合格を果たし、合格通知を受け取った直後に過労で入院した。

本稿は、『虚弱と歩く』(扶桑社)に収録された宮崎智之さんのエッセイ「虚弱という『横臥者』の視点」の一部を再編集したもの。同書には、さまざまな立場の書き手が自身の「虚弱」について記した13編のエッセイが収録されている。

宮崎智之

1982年、東京都生まれ。文芸評論家。著書に『平熱のまま、この世界に熱狂したい増補新版』など多数。「随筆復興」を掲げて文芸誌『随風』企画人を務めるほか、ちくま文庫の『精選日本随筆選集 孤独』『精選日本随筆選集 歓喜』の編者も手掛けている。

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