オヤジ的発言にも意外な効果? ――「配慮した発言」に囲まれる日々の中で

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2016年02月18日 10:31  MAMApicks

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早朝に子どもが吐いた。立て続けに複数回。あぁ、冬の風物詩……と思いつつ、いくつになっても、やっぱり大変なものは大変である。ちょうど土曜の朝、週末2日分、子どもが楽しみにしていた予定はキャンセルするしかなさそうだ。

それっきり治まり不安レベルは低いものの、とりあえず受診はしておきたいムード。土曜にやっている手近な病院に連れて行った。ここは小児科が常時対応ではないし、行くたびに先生が違うタイプの病院である。連れて行く方の私も、もともと割り切っている。

■断定系オレ様ルール的先生にあたる
この日の受診担当の先生は、初にお目にかかるおじさん先生。なんだか「自分が世の中で一番正しいと信じている」傾向の方独特の、こちらの発言がおそらく先方にはうまく到達しなさそうなオーラを発している。失礼ながら、私の一方的な「オヤジ注意センサー」が反応した。

なとなく、断定的である。診断もスパッと、というかバッサリという印象。

「あの、学校は、微熱が治まったら行っていいでしょうか? 万が一インフルエンザとかそういう心配は……」
「いや、これは違います、検査も不要です。学校は行ってください。勉強は大切です。」

ん?そこで勉強って言う?まぁ、でも、それなら元気そうになったら明日出かけても平気かなぁ、なんてちょっと思って、うっかり、
「あの、じゃあもしこのまま今日すごく元気になったら明日外出しても大丈夫で……」
「それはだめです、風邪ですから外出禁止です。」
「……ですよね……。」
ピシャリと制止され、ちょっと小さくなる。


そして先生、なぜかキリリと息子の方に向かって、
「君、3年生でしょ。もう1日2時間は勉強しなさい。子どもは勉強勉強!」
と語りかけている。オレ様ルールである。

先生、大変僭越ながら、体調不良で来た子どもに勉強の話っていうのもですねぇ、しかも一日2時間って……個々の特性というものも……。

笑顔で受け止めつつも、はぁ、まぁねぇ、と、心で小さなため息をつく。

■世の中には「配慮した発言」があふれている
迷いのない「オヤジ的」発言の余韻にひたりながら、診察室を出て思った。あれ、だけれども、ちょっと待て。なんだかむしろ、今の新鮮だったかも……。こういうの、久しぶり……。

そういえば、いまどき、子どもと親の周辺には、ものすごく「配慮した発言」があふれている。子どもが生まれてから、「物分かりのいい発言」に囲まれていると感じることが多い。差異を認め強制せず、触れる「べきでないところ」を避けてやわらかく「配慮」する。

もちろんすべてがそうではないし、きつい扱いやひどい表現の方が話題にのぼりやすいけれど、そういう「ハズレくじ」に遭遇する確率よりは、あたたかい配慮に触れることの方が日常的には圧倒的に多い。

とくに仕事で乳幼児とその親に関わる人たちの態度にそれは顕著で、相当言葉を選んでくれているのがわかったり、それがおそらく守るべきルールになっているんだろうなと感じたりする。

過敏な状態の親が不安になったり傷ついたりしないように、多くの現場の人たちは相当気をつけているのだろう。そして「強制してはいけない」からか、ふわりと可能性を示唆するにとどめ、最終判断が親に委ねられることが多い。

■やわらかさとセットの「重さ」 ――強い発言の意外な効果
ところが、この「強制しない」という姿勢は一方で、どこか突き放す側面もあったりする。

「最終的にはお母さんの判断でいいですよ」

というこのひとことは、やわらかいけれど、その判断の責任が親に求められる瞬間でもあり、小さなことでついふらふら迷ってしまったりしてしまう。

もしこの受診時に、「元気そうだったらお母さんの判断で明日出かけても大丈夫ですよ」と言われていたら、きっと翌朝まで体調を観察して外出予定を復活させるかどうか悩んだだろう。

子育ての日々の中では、そういう小さな「迷い→決断→責任を感じる」を繰り返しているから、結構「判断疲れ」をする。時に直面する大きな決断はその重みごと引き受けて決着をつけるしかないけれど、些細で微妙なラインのことほど、迷ったところで答えは出ず、迷っている自分そのものに嫌気がさして疲れてしまったりするのだ。

だから、語調は強くオヤジ的ではあったけれど、「明日は外出ダメ」と断定されたことで、スパッと諦めがついて迷う必要がなくなり、意外と気が楽になってしまった。

■「流す」フィルターとフットワーク
こんな効果があったとはいえ、この種の断定系発言こそがいい、ということでもない。それにさらされるのがきついフェーズは確実にあるだろう。

育児初期、自分のポリシーが強い人なら、合わない強い主張には過剰に反発を覚える可能性は高い。逆に、すごく不安感が高い人なら、最もらしい力強い判断基準にすがってしまい、自分で判断するのを逃げるようになる可能性だってある。

やわらかい配慮に満ちた表現に囲まれて助けられるからこそ、いつの間にか敏感さが減って、小さな判断を繰り返し、自分の経験値が上がっていくものなのかもしれない。

一方、強い表現というのはつねにあって、世の中から消えないしそれはそれで環境の一部だったりする。もちろん、不当な言動に対して怒りを表明したり、抵抗することは必要だけれど、多くを占めるのは「ちょっと困った」レベルのライトに不愉快な表現。それに遭遇したときには、「これは流す」と判定するフィルターと、さらりとかわすフットワークの方が役に立つ。

私が育児初年度に、今日の先生に会っていたら笑顔で受け止めてたかなぁ、いや……と想像して、あら、もしかして昔よりは、かわすフットワークが軽くなってるんじゃないの?少しは成長したかも!と、ちょっとうれしくなって、病院を出た。

■子どもに意外な効果が!
帰り道、「なんか先生ものすごかったねぇ。2時間も勉強しなさいって、いやぁ私はそんなにしなくていいと思うけど……っていうかできないって……」と、ぶつぶつ言っていたら、当の息子は、「なんかあの先生いかにも“キョウジュ”って感じだったよね」と少々盛り上がっている。

そういえば、なんか神妙に話を聞いていたなぁ。もしや子どもにも新鮮だったか……?

翌日、どうやらかなり快復した様子なので、息子に面白がって言ってみた。
「ねえねぇ、昨日“キョウジュ”みたいな先生が言ってたよね、1日2時間勉強って。漢字ドリルやった方がいいかもよ?」
なんと、普段なら決してやろうとしないのに、すんなりやり始めるではないか!すごい効果!!

まぁ、やったのは1ページだけだったけれど……。

狩野さやか
ウェブデザイナー、イラストレーター。企業や個人のサイト制作を幅広く手がける。子育てがきっかけで、子どもの発達や技能の獲得について強い興味を持ち、活動の場を広げつつある。2006年生まれの息子と夫の3人家族で東京に暮らす。リトミック研究センター認定指導者。

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