YOU THE ROCK★が語る、90年代ヒップホップの着火点「俺たちが恵まれていたのは、教科書がなかったこと」

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2016年10月22日 17:01  リアルサウンド

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YOU THE ROCK★

 ジャパニーズヒップホップが興隆し、日本語ラップやクラブカルチャーが大きく発展した90年代にスポットを当て、シーンに関わった重要人物たちの証言をもとに、その熱狂を読み解く書籍『私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ(仮)』が、12月上旬に辰巳出版より発売される。宇多丸、YOU THE ROCK★、Kダブシャイン、DJ MASTERKEY、CRAZY-A、DJ YAS、DJ KENSEI、KAZZROCK、川辺ヒロシといったアーティストのほか、雑誌『FRONT』の編集者やクラブ『Harlem』の関係者などにも取材を行い、様々な角度から当時のシーンを検証する一冊だ。


 本書の編集・制作を担当したリアルサウンドでは、発売に先駆けてインタビューの一部を抜粋し、全4回の集中連載として掲載する。第3回は、雷の中心人物の一人として、「亜熱帯雨林」や「鬼だまり」といった数々の伝説的なアンダーグラウンド・パーティーを仕掛けたほか、TOKYO-FMで放送されていた深夜ラジオ番組「ヒップホップナイトフライト」のパーソナリティーとしても活躍し、シーンを牽引したYOU THE ROCK★が登場。B-BOYの象徴として今なおリスペクトされ続ける彼は、いかにしてシーンを燃え上がらせたのか。その軌跡を辿るとともに、今だからこそ語れる本音を明かした。(リアルサウンド編集部)


(関連:90年代ヒップホップ集中連載1:元CISCOバイヤーが語る、宇田川町が“レコードの聖地”だった頃


■「日本語ラップはかっこいいってことを証明したかった」


ーーYTR★さんは87年、15歳にして長野からヒップホップをやるために上京しています。改めて、ヒップホップにのめり込んだきっかけを教えて下さい。


YTR★:俺は長野の出身で田舎だったから、当時の情報は雑誌やラジオから得ることがほとんどだった。『宝島』とか『ホットドッグ』とか『ポパイ』とか、音楽専門誌だと『ミュージック・マガジン』とかを貪るように読んで、『FMステーション』を読んではラジオをエアチェックする日々だったね。その頃に登場したダブルラジカセは編集もすることができて、画期的だったよ。当時の長野のラジオでは、地方局と関東のキー局が切り替わるときに曲が垂れ流しになっていて、「とんねるずのオールナイトニッポン」を聞こうと思っていたら、マドンナの「Holiday」をベースにしたMC Miker G & DJ Svenの「Holiday Rap」が流れてきて、「なんだこれは?」って気になった。そこからRUN D.M.C.とかもリアルタイムで聞くようになって、ハマったんだ。俺の音楽人生の始まり。そのうち、近田春夫さんやTINY PANXの藤原ヒロシさんを知って、その“ザ・東京”という感じにやられて、毎週のように原宿に通うようになった。中学時代はお坊っちゃま学校だったから、誰かに教えたらすぐに真似されると思って、東京で得た情報は内緒にしていた。中2のときにはもう東京に行くことを決意していたよ。


ーー上京後はバイトをしながら、さらにのめり込んでいくと。


YTR★:上京した当初はブレイクDJに憧れていて、TINY PANXの加納基成さんに弟子入りして鞄持ちをさせてもらったりしていた。レコードが欲しくて上京してきたところもあったから、恵比寿から渋谷に行ってレコードを買ったときは、電車の中で匂いを嗅いだり、我慢できなくて途中で開けたりして。そんなことしても聴けるわけじゃないんだけど、少ない予算で、ほとんど賭け事みたいな気持ちでチョイスしているから、一枚一枚が大事だったんだよ。で、金がないから妥協して買ったレコードが、家に帰って聴いてみたら大当たりだったりするともう大変(笑)。それでどんどんのめり込んでいった。バイトもいろいろやっていて、90年に入って、渋谷のインクスティックってDJバーで働いていたときに、BENちゃん(BEN THE ACE)と出会ってラップをするようになって、ネットワークも広がっていった。バイトが終わった後は、それこそ喉から血が出るくらい練習していたよ。まさに「BACK CITY BLUES」で歌っていた通りで。


ーーYTR★さんはイベント主催者としても、90年代シーンに足跡を残しています。


YTR★:当時はECD主催のコンテスト「Check Your Mike」(91年)とかがあったんだけれど、一回も優勝できなくてね。それに、人が開催するイベントで、チケットノルマがあって売り切れなかったら自腹みたいなのは嫌だったから、自分で「バトル・オブ・ヒップホップ」という団体を立ち上げて、SOUL SCREAM(当時はパワーライスクルー)とかAlligatorをやっていたDJ YASとか、若手中の若手を集めてイベントをやるようになった。当時は渋谷のファイヤーストリートの店でMURO君がバイトしていたこともあって、だんだんとみんなその通りに集うようになって、ヒップホップのストリートができていった。俺もミックステープを売らせてもらったりね。俺とMICROPHONE PAGERとLAMP EYEとG.K. Maryanを中心とした一派がそこから生まれて、俺たちはハードコア志向が強かったから、だんだんとLBやFGとは分化していった。でも、単に違う学校くらいのイメージで、ライバル心はあったけれど、お互いにディスりあったりはしなかった。それに俺は、当時からコンシャスなラッパーで自分のうちに秘めた弱さとかを歌っていたし、レゲエの現場にもよく行っていて、フリースタイルよりラバ・ダブの精神に重きを置いていたからね。でも攻撃的だったよ。


ーーイベントの規模はどんな風に大きくなっていったのですか?


YTR★:「バトル・オブ・ヒップホップ」や下北沢のZooで始まった「スラムダンクディスコ」みたいなイベントからスタートしたけど、最初はほとんど身内しかいなかった。92年になると俺は、須永辰緒さんがやっていたインディーズレーベルRhythmから、YOU THE ROCK & DJ BEN名義で『NEVER DIE』をリリースしてデビューしたんだけど、その後、BENちゃんがなかなか新曲ができない状況で。そこで考えて、俺はイベントの司会をやるようになるんだよ。そこから段々とイベントを取り仕切るキャラになっていった。


 その流れもあって、RUN D.M.C.やHouse Of Pain、Naughty By Natureが来日公演したときには、前座をやらせてもらったりしたんだけど、観客から瓶や缶が飛んでくる酷い有様で、日本語ラップははっきり言って馬鹿にされていた。向こうのラッパーとは、体格から発声まで何もかもが違っていて、挫折を味わった。


 だけど、91年頃から俺はTwiGy(TWIGY)と毎年夏にNYに行くようになっていて、ニューミュージックセミナーに参加したことでギアが入った。そこで観たWu-TangやMETHOD MANが、俺たちを変えたんだ。ネイティヴ・タン一派のようなジャジーなヒップホップとは違う、ホラーコアで押していくスタイル。テイ・トウワさんやヤン富田さんが向こうのヒップホップに影響を与えているんだから、俺たちだってやって良いんだ、このスタイルでやっていくしかないんだって確信して、ブルックリンにいるような気持ちでラップに打ち込んだ。


 92年から西麻布のCLUB ZOAで始めた「BLACK MONDAY」は、今でこそ伝説とされているけれど、当時は男ばかり80人くらいが店の前に原チャリを停めて、誰それのガールフレンドが2〜3人いるだけみたいなイベントで、みんなで焼酎を回し飲むような感じだった。でも、日本語ラップはかっこいいってことを証明したくて、みんな本気でマイクを握っていたよ。一度、Beatnutsが遊びに来たんだけど、ヨシピィ(ヨシピィ・ダ・ガマ)が気づかずにマイク奪ったくらい(笑)。その熱が、徐々に周りにも伝わっていったんだろうね。


ーーイベントを通じて結成された“雷”は、かなり強面なイメージだったのですか?


YTR★:とはいえ、雷はギャングスターではないから、基本的にはみんな礼儀正しい良い奴だった。普段は誰かの家に行って、こたつでマライア・キャリーのビデオを観ようみたいな感じだから。そもそも雷は、ドリフみたいなコント集団的なノリも目指していたし、悪ぶったことを言うのもキャラとしてやっていたところがあったんだ。だけど観客はそう見ていないところもあって、イベントを開催するたびにクラブの周辺がタギングだらけになってしまうから、俺たちは場所を次々と変えざるを得なかった。「暗夜行路」「亜熱帯雨林」と、イベントが変わるたびに規模は大きくなっていったけれどね。


ーー95年には伝説的ラジオ「ヒップホップナイトフライト」も始まりますね。


YTR★:雷のイベントに漫画家の中尊寺ゆつこさんが来てくれて、すごく応援してくれたんだよ。俺もゆつこさんに甘えていたから、「金歯買ってよ」とか言っていたんだけど、彼女は「金歯は買ってあげられないけれど、ラジオはどう?」って、一緒に講談社の偉い人のところに行って、そのつながりでTOKYO FMの森田太さんを紹介してもらって、あれよあれよという間に放送することが決まった。どこの馬の骨かわからない俺に、いきなり3時間もラジオやらせるんだから、今考えるとすごい話だよね。実際、スタジオにはゲスト以外の連中も集まっちゃって、放送が終わると局からラジカセが1〜2台盗まれて、トイレで異臭騒ぎが起こるという始末だった。でも、いろんな音源をかけまくって、ひたすらラップをしまくったら、反響がすごくて。般若くんとかサイプレス上野くん、ダースレイダーくんも、俺のラジオを聞いていたって言ってくれている。そういう話を聞くと、本当にやってよかったと思うし、誇らしいよ。


■「俺たちが本当に恵まれていたのは、教科書がなかったこと」


ーー96年には、メジャーレーベルであるカッティング・エッジから、アルバム『THE SOUNDTRACK’96』をリリースしています。当時のシーンの空気感を詰め込んだ作品でした。


YTR★:たぶん日本で一番最初にソロでアルバムを出したラッパーは俺なんじゃないかな。石田さん(ECD)もソロだけど、メジャーフォースに所属していたから。アンダーグラウンドから出てきた個人では、俺が最初だと思う。最初はシングル1枚という話だったんだけど、いろんなトラックメイカーを集めて、途中で止められない状態にして、ゴリ押しして作った。「Black Monday ’96」なんかは、当時俺が紹介したかったラッパーをどんどん迎えて作った曲で、Macka-ChinとかRINOとか、みんなレコーディングはほとんど初めてだから、何をやっているのかわからないみたいな感じで。みんな、「ユウちゃんのところにいくと飯が食えるらしい」みたいな噂で集まってきて、コンちゃん(Dev Large)は1800円の弁当をいつも2個頼んで持ち帰っていた(笑)。俺も、いただきますとごちそうさまさえ言えれば、それで良いと思っていたよ。


 映画音楽好きな俺が、サウンドトラックみたいなイメージで、スキットも「亜熱帯雨林」の楽屋で盗み撮りしたものを使ったりしていた。だから、当時の熱量がパッケージされている。プロ・ツールスも使われていなかった時代だから、レコーディングはすごく時間がかかって、始めた翌日の昼過ぎに「太陽が黄色く見える」なんて言って格好つけていたけれど、それもリアルさにつながっていたんじゃないかな。石田さんにはこのときはラッパーではなくて、お目付役として来てもらった感じ。石田さんとかMaryanはリズムを外すんだけれど、俺くらいの往年のファンになるとそこがたまらないんだよ(笑)。最近のラッパーはみんな上手くて良いんだけど、石田さんたちみたいな味わいがない。当時、俺たちが本当に恵まれていたのは、教科書がなかったことだね。なにもわからなくて手探りでやっていたからこそ、リアルだったし、みんなでヒップホップを盛り上げることができた。


ーーアルバムリリース後には、「さんピンCAMP」が開催されます。当時はECDさんの「MASS 対 CORE feat.YOU THE ROCK★ & TWIGY」に象徴されるように、メジャーシーンへの対抗心があったように見えましたが。


YTR★:m.c.A・Tの「Bomb A Head!」(93年)とか、スチャダラパーと小沢健二の「今夜はブギーバック」(94年)とかが話題になって、日本でもヒップホップに注目が集まりつつあったけれど、B-FRESHやKrush Posseみたいな本格志向でやっている人たちはあまり脚光を浴びていなくて、それが俺には不満だった。こっちは食えないし、バイトで体ボロボロだし、朝方にクラブから帰ってBOSEくんの出ている『ポンキッキーズ』観る生活だったから。だから「証言」ではスチャのことをディスってしまったんだけれど、本音を言えば好きだから気にしているわけで、今となっては言わなければよかったとも思っている。


 大体、さんピンCAMPだってavexの仕切りなんだから、よく考えれば内輪揉めみたいなものだよね。ただ、たとえば最近の音楽で、「PERFECT HUMAN」と中田ヤスタカの曲しかなかったら困るじゃない? そういうことを言いたかっただけで、すごくシンプルな下克上スタイルだったんだよ。


 それに、俺は次のアルバム『THE★GRAFFITI ROCK ’98』で、スチャのSHINCOくんにトラックを提供してもらって、「ダックロックフィーバー」を作った。それが俺のヒット曲になっているんだから、答えは出ているよね。結局は、持ちつ持たれつの関係なんだよ。ビーフはゲームになるとただの売名行為に成り下がることもあるけれど、うまくシーンを盛り上げられるのなら、それはヒップホップの面白さにつながるんじゃないかな。単なる喧嘩じゃなくてね。きっと空の上にいるコンちゃんもそう思っているはず。


ーー『THE★GRAFFITI ROCK ’98』は、ガラリと雰囲気が変わったアルバムでしたね。


YTR★:さんピンCAMPぐらいからシーンが過熱していって、いつも通りにやっていたことの意味合いが変わっていったんだよ。俺自身もホラーコアには飽きていた時期だったし、だから『THE★GRAFFITI ROCK ’98』では違う方向に舵を切ったんだ。俺は士郎くん(宇多丸)の天邪鬼な感じとはまた違って、芸術的に天邪鬼なんだ(笑)。もともとカルチャーが好きで、アートの解釈としてヒップホップをやっているから。(続きは12月上旬発売予定の『私たちが熱狂した90年代ジャパニーズヒップホップ(仮)』にて)


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