『カルテット』は“性愛”をどう捉えたかーー“唐揚げ問題”が示す、新たな家族のカタチ

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2017年03月26日 06:03  リアルサウンド

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(c)TBS

 カルテットを最後まで見て、このドラマは一体何を書こうとしていたのだろうと、かなり考えた。もちろん、いろんな角度から見ることはできるだろうが、近年の恋愛ものを巡る論争を思い出した。


参考:『カルテット』は語り尽くせない 掲載レビュー全28本まとめ


 近年、「女性は恋愛要素がないとドラマや映画を観ない」という思い込みから、恋愛を主軸にしていない作品にも恋愛要素が無理やり入れられたり、恋愛要素で気をひこうとしたりすることが見られる作品は多かった。皆、恋愛が憎いのではない。ダサピンクといって、女性はピンクが好きだろうと、安易にピンクの商品を開発するのと同じで、安易に恋愛要素を入れればいいのだろうと、作り手が消費者を見ていないことに反応しているのだ。


 『カルテット』は、恋愛要素も出てきたが、恋愛ものではなかった。それどころか、恋愛が一番大事であり、社会を構成する基本ではないという視線が感じられた。それは「唐揚げ」のシーンでわかる。


 カルテットドーナツホールのメンバー4人が初めて食事をするときに唐揚げが出てくるが、その唐揚げに世吹すずめ(満島ひかり)と別府司(松田龍平)が当たり前のようにレモンを絞ると、家森諭高(高橋一生)は、それに対してかなりしつこく異を唱える。しかし、この4人はだからといって、ギスギスしたりはしない。なんとなく、元に戻るのだ。


 次に唐揚げが出てきたのは、失踪中だった巻真紀(松たか子)の夫(宮藤官九郎)と真紀の回想シーン。夫と結婚してからの食事シーンで唐揚げが出てくる。真紀は何も言わずに唐揚げにレモンを絞ると、夫も一度は喜んで食べるふりをするが、その後は手をつけなかった。宮藤官九郎がいつまでも文化的なものに対するこだわりの抜けない青年を演じ、しかも優しすぎるが故に何も言えない表情を見せるのが、なんとも言えず印象に残るシーンであった。


 3度目の唐揚げは、夫が元の会社の後輩とともに居酒屋へ行くシーンに出てくる。そこで後輩は唐揚げにレモンを絞ろうとするが、夫はそれを拒否。夫の「外で食べるときくらい好きに食べさせてくれよ」「愛してるけど好きじゃないんだよ」という声を、偶然そこに居合わせた真紀が聞いて先に店を出る。夫は、そこに真紀が居たことを後になって知るのだった。


 ふたりの間の溝は唐揚げ以外でも広がっていたが、唐揚げにレモンをかけるのが嫌ということが言えない関係であったことは、二人が一緒にいられない要因として象徴的だった。それがきっかけで、夫は靴下を脱いだまま疾走することになった。


 しかしなぜ唐揚げにレモンをかけることで夫と真紀は暮らしていけなくなったというのに、カルテットの4人の間ではスルーできるのか。


 考えてみると、夫には出会ったときから、一目ぼれに近かっただけに、真紀への理想像と幻想があった。この人には品があって、音楽をやっていて、ミステリアスなところがあって、そしてそのことでドキドキしていた。


 幻想を抱き、恋をしていたいからこそ、結婚後の現実に幻滅してしまう。映画を見るとき、コーヒーを飲むとき、本を扱うとき、自分と価値観が違うたびに幻滅し、その想いを素直に言えなくなってしまう。


 こうした、好きから生まれる幻想によって、関係性が変わってしまう状態は、このドラマの前に放送されていた『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS系)でも描かれていた。ヒロインのみくりと平匡が初めて一夜をともにした後、平匡の態度が変わってしまうのだ。それをこのドラマでは「好きの搾取」と言った。


 一夜をともにする前は、お互いの距離を図り、何かあるたびに話し合いで解決したり配慮をしていた平匡が、その日を境に、愛情があれば、今までのことは、大抵OKになると勘違いしてしまう。愛情や好きという気持ちがあれば、なにもかも許されると、一夜にして価値観が覆されるのである。


 平匡とみくりの場合は、お互いが思ったことをズバズバ言う間柄であったことで、乗り越えることができたが、『カルテット』のふたりは、相手をおもんぱかって好きなことが言えなかったために、愛情はあるのに乗り越えることができなかった。


 では、カルテットドーナツホールの4人の場合はどうだろうか。彼らの価値感はまったく違う。唐揚げの食べ方ではパセリを巡って最後の最後まで意見が分かれるし、映画を見ても、同じ見方はできないけれど、「そういうのを楽しむ映画なんです」と言うことができる。真紀の夫が、真紀から「この人いい人? 悪い人?」と聞かれて、いらつきながらも優しく説明しかできないのも、愛があればすべて分かり合えるはずだったのに、という期待に甘えているからだ。


 しかし、カルテットの4人の間でも「好き」はもっとも重要なものではあるが、それが性愛と結びついていないだけに、「わかって当然」と変化することがなかった。


 もちろん、『カルテット』では、様々な性愛も描かれていたし否定もしていない。しかし、一緒に生活をしていく4人の間にはそれがないし、それが最も重要とも書いていない。その状態のまま、きっと4人は共同生活をしていくのだろう。それは、今までの家族の在り方を超える結末だ。通常、物語の中のこうした共同生活は、長い夏休みのように、いつかは終わるものとして描かれがちだ。モラトリアムはいつか終わらないといけない、とされているからだ。


 しかし、別府は、二度寝をしないすずめと、週に7日働く家森を見て、自分だけがキリギリス(=モラトリアム)を卒業できていないと嘆く。でも、このドラマは最終的には、キリギリスでもいいじゃないかと言っているように見える。モラトリアムを卒業していく先が、夫婦になることだとされているのに対し、このドラマは、性愛を通じてつながった夫婦だけが家族の形ではない、というメッセージを込めているような気がするのだ。(西森路代)


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