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「作家」と「ライター」。どちらも「ものを書く」という意味では共通する仕事だが、その違いはどこにあるのか? 現在、その肩書きの区分けに関して議論が勃発している。
そのきっかけは、27日にはあちゅうが自身のツイッターに、「影響力絶大!人気のある有名な「読モライター」まとめ!」と題された「NAVERまとめ」のURLを張り付けながら、このようなツイートをしたことだった。
〈読モライターのまとめを見て見たらまさかの私がいた。私、ライターではない...〉
「読モライター」とは、ヨッピーやセブ山に代表されるような、ウェブ上でのタレント性の高いライターたちのことを指す言葉なのだが、彼女はそのジャンルの人間ではないと否定しつつ、続けて、そもそも自分の肩書きは「ライター」ではなく「作家」であり、その違いに対する自分なりの定義をこのように提示した。
〈書く人ってことで雑にまとめられること多いけど私は作家を名乗っていて、肩書きがライターになってる時は全部修正してもらってる(´ω`)
ざっくりですが
作家→自分の意見を書く
ライター→誰かの意見(自分以外に取材)を書く〉
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これに対し、吉田豪が反応。このようなツイートを投稿し、疑問を呈したのだった。
〈Wikipediaにも「ただ単に『作家』と言った場合、著作家、とくに小説家を指す場合が多い」って書かれているように、ボクは作家=小説が本業の人だと解釈してるので、はあちゅうさんのこともライター枠の人だと思ってます。〉
この考えの齟齬の根幹には、両者間での「作家」、「ライター」という言葉に関する定義の違いがある。
はあちゅうの考えでは、インタビューの構成や週刊誌の取材記事などを書くのが「ライター」で、エッセイストやコラムニストは「作家」の枠に入る。一方、吉田豪の解釈では、小説家が「作家」であり、エッセイなどを本業とする人は「ライター」の枠に入るということになる。
はあちゅうは「群像」(講談社)2017年2月号にデビュー小説を書いていたりと、小説家としての活動もしているとはいえ、現段階で我々が目にするのは主にブロガーであったり、コラム、自己啓発エッセイなどを書いている側面だ。となると、吉田豪的な「作家」の解釈では、はあちゅうは「ライター」ということになるのだろう。
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とはいえ、作家であろうとライターであろうと、別に免許がいるわけではないし、どちらを名乗ろうと個人の自由という問題ではある。だが、この肩書き問題について確固たる美学をもっている人は想像より遥かに多く、はあちゅうと吉田豪のやりとりが起きるや否や、ツイッター上に次々と意見が投稿されていったのであった。
たとえば、公の場では「時代劇研究家」という肩書きで登場することが多い春日太一は、場によって肩書きを使い分けていると語る。
〈自分は仕事モードでは「研究家」というか肩書きを大事にしてるけど、映画とか時代劇とか興味なさそうな人の集まりに参加した時はいろいろ説明するのが面倒なんで「ライター」「映画評論家」と名乗ってる。「作家」だと「小説家」と間違われるので避ける。〉
活動範囲が多岐に渡っている人は大変で、掟ポルシェは自分の肩書きについて、〈もうサブカルでいいよサブカルで〉と吐き捨てながら、こんな悩みをぶちまける。
〈肩書なんてものは大体取材を受けた後に肩書はなんですか?と聞くやつがいるからしょうがなく無理矢理付けるのであって、いろんなことをやらないと食えない自分みたいなものはどう名乗っても恥ずかしいものにしかならないわけで。もう肩書聞いてくるやつってなんなの?〉
〈ミュージシャン(←食えてないし永遠にポピュラリティを得られないことしかやってないので名乗るとまず笑われる)...コラムニスト(←食えてないしウン・チン・マン・キン抜きで原稿を成立させることができない)...DJ(←使ってる曲ほぼ毎回同じで選曲家を名乗るほど図太くない)あああ俺何を名乗れば〉
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確かに、掟ポルシェに対して「あなたのご専門は?」と問い詰めることほど、彼の仕事の面白さを削ぐ野暮な質問もないだろう。
ちなみに、なかにはこんな人もいる。「メディア・アクティビスト」という、日本ではあまり聞き馴染みのない肩書きを使う津田大介は、〈「メディア・アクティビスト」は僕がテキトーに言葉遊びした肩書きではなく、米国のメディア史で重要な役割を果たした市民の情報発信をサポートする人たちのことを指す古い肩書きです。〉と捕捉説明しつつ、その肩書きについてこのようにツイートした。
〈ほかに誰も名乗ってない新しい肩書きを名乗るとこういう面倒なやり取りを回避できますよ。「メディア・アクティビスト」は俺と辛酸なめ子さんしか名乗ってないから便利、と思ったらなめ子先生最近のプロフィールでは名乗ってないのであった......。〉
肩書きに関しての考えは人それぞれなわけだが、この一連の意見のやり取りを読んで見えてきたのは、「作家」という肩書き・言葉に対して人々が抱いている畏敬の念である。それはこのような言及に象徴的だ。
〈世間が認めるものが自分の肩書きだと思っていて、だから私の肩書きは「作詞家」。時々気を遣って「作詞家・作家」と書かれてることがあるけど、ひえええー勘弁してくれと思う。作家としての実績なんて何もない。たった3冊本出して時々文章書いてるくらいで作家と名乗れるほど、私は厚顔じゃない。〉(及川眠子)
〈プロ十一年目になっても「作家」と名乗るのは、なんとなく恥ずかしく、せいぜいミステリ小説家と名乗っているが、はあちゅう先生にそうした臆面や含羞なんてものがあるわけないので、作家を自称するのは当然の流れで、じつにスジが通っているとも思う。彼女が作家とは全然思っていないけれど。〉(深町秋生)
なんとなく「はあちゅう憎し」の思いが言外に含まれていて、議論が横道に逸れて行きかねない語り口なのが気になるが、それはともかく、はあちゅう自身も、こんなエピソードを引きながら「作家」という肩書きへのこだわりを語っている。
〈林真理子さんは賞をとるまで自分から作家を名乗らなかったという話が私はすごく好きで、私も「名乗ることと認められることは違う」と自分に言い聞かせてるけど、林さんにそれを言ったら、「はあちゅうさんが作家という肩書きつかって悪いことないよ、自分鼓舞する意味でもそう名乗っていけばいいよ」と言ってくれたから、私は「ブロガー・作家」を使い続けます。〉(引用者の判断で二つに分割されているツイートを一つの文章にまとめた)
これを受けてか、吉田豪はこのようにツイートしていた。
〈肩書問題は、要するに「自分はいつかこう呼ばれたい」と思ってそれを名乗る人と、そこに到達してからそれを名乗る人との違いがあるってことなんだと理解しました! 夢を肩書にして自分を追い込む人と、現実を肩書にする人の違いというか。〉
では、当の小説家自身は「作家」という言葉をどう捉えているのか? 先ほど挙げた深町は「作家」という言葉に特別な思いを抱いていたが、一方、松井計はこのように語っている。同じ小説家でも「作家」という肩書きに対する思いはそれぞれのようだ。
〈私は特に、〈作家〉という言葉に特別な意味を感じたことはないんですよね。定義に思いを馳せたこともない。現況、小説家のことを作家と呼ぶ業界の商習慣がある以上、それはパン屋とか蕎麦屋とか警察官とかと同じく職業の名前ですからね。〉
〈だってね、〈作家〉なんて敬称でもなんでもないですよ。編集者と話してると、それがはっきりと分かる。我々が編集者のことを編集者と呼ぶのと同じように、作家は作家と呼ばれるわけで。ここにあまり、妙な意味を持たせる必要はないように感じますがねえ。違うのかしら?〉
「世間が認める肩書きがその人にとっての正しい肩書き」という意見ももっともな意見だとは思うが、〈「自分はいつかこう呼ばれたい」と思ってそれを名乗る〉というのも、それはそれでアリだろう。美容師や弁護士や医者など、資格が必要なものであればそれはまた別だが。いずれにせよ、「みんな"肩書き"が気になるんだなぁ」と改めて思わされたエピソードであった。
ちなみに、辞書(「大辞泉」)で「作家」という単語を引いてみたところ〈詩や文章を書くことを職業とする人。特に,小説家〉とあった。ただ、辞書の文章は時代によって変わるものであり、それだけが正しい意味でないということは言うまでもない。また、これを言い出したら話は終わりだが、そもそも英語の「writer」は、作家も記者もコラムニストもエッセイストもすべて含んだ言葉である。
(新田 樹)
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