竹内涼真、強烈キャラは高畑充希を変えるか? 『過保護のカホコ』遊川和彦脚本の狙い

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2017年07月26日 06:03  リアルサウンド

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 『過保護のカホコ』はコメディの形をとっているが、その中に描かれている現実にはなかなか辛辣な部分がある。


参考:竹内涼真、『過保護のカホコ』で再び“ヒーロー”に 高畑充希の隠れた魅力を引き出す存在感


 ドラマの冒頭で、大学生のカホコ(高畑充希)は何社受けても就職試験に受からないため、母親が面接を想定して一緒にどうすべきかを考えるシーンがある。黒木瞳演じる母親は、カホコが考えるより先に、「私だったらこう言うな」と自分のことにすり替えてしまい、カホコに考える余地を与えない。


 それを見ている父親(時任三郎)はその様子を見て心の中では冷静だが、それを口に出すことはできない。いつも、心の中で、カホコをカエルになりかけのオタマジャクシにたとえ、母親のことは、周囲のことを注意深く見ているミーアキャットに例えるのがやっとだ。


 また、母親は、自分の住む町の周辺を赤い境界線で囲んでいる。それは、自分の王国で、そこを出ると急に覇気を無くしてしまう。しかし、その境界の中、もっと言えば、家の中では女王であり、娘のカホコはお姫様なのである。


 コミカルには描かれているが、この家族は、一種の機能不全な部分を持った家族の話にも見えるし、最初からそこを軸として描こうとしているのではと思えてくる。


 カホコは、大学の学食でも大学の構内のベンチでも、必ず母親の作ったお弁当をひとりで食べている(竹内涼真演じる麦野初に出会うまでは)。もちろん、ぼっち飯がいけないというのではないが、家族や親戚以外との交流がないということが今のところはうかがえる。


 しかも、カホコはひとりで食べていることを気にしている様子もない。また、家族での食事の後には、自分の小さいころのお遊戯会や運動会などの映像を見るのが団らんのひと時であるのだが、そこにも疑問を抱いていない。自分の家がほかの家とどこか違うということにも気づいていないからだ(必ずしも同じであればいいというわけではないが)。


 それは、考えようとする前に、すべて母親が先回りして、考えるということを奪ってきかからであろうことは、一話で十分すぎるほどに描かれている。親の言動を受け止め、その期待に応えようとするのは誰もが通る道ではあるが、大人になってまで過剰に続いていくと、子供には何かの影響が出てしまう。カホコの母は、カホコとちょっと連絡がとれないだけで、警察に駆け込んでしまうのだ(警官に親戚がいるからカジュアルに相談してしまうという意味合いはあるにしても)。


 二話でカホコの従姉妹である糸(久保田紗友)のエピソードが描かれる。糸は長年チェロをやってきて有望視されていたし、家族や親戚の前ではいい子であろうとしてきたのに、手首を痛め、それをカホコが慰めようとして、感情を爆発させる。糸もカホコも、家族の中でいい子であろうとしてきたという部分では似たもの同士だったのだ。


 カホコはまだ糸のように感情を爆発させるほどの疑問はもっていないが、大学で出会った「自称ピカソ」の麦野初が、カホコを変化させる役割を担うのだろう。当初は竹内が『ひよっこ』で演じている島谷のキャラクターとは違い、荒々しい性質の役を演じているというギャップに驚いたが、カホコに影響を与えるにはこれくらいはっきりと突きつけるキャラクターが必要なのかもしれない。いつも辛辣ではあるが、受け止めるところではきちんと受け止められるキャラクターで、『ひよっこ』の島谷とは違う魅力を発揮しそうだ。


 このドラマを見たとき、NHKで放送されたドラマ『お母さん、娘をやめていいですか?』を思い出した人は多いだろう。しかし、二作品のヒロインには似ているが違うところがもちろんある。『お母さん…』のヒロインの美月(波瑠)は、どこか母親との関係がおかしいことに自分で気づいている描写が当初からあったが、カホコはそこまでには至っていない。カホコの状況が、『お母さん…』の美月よりも、従姉妹の糸よりも実は深刻であることがわかる。


 おっとりした性質のカホコは、美月や糸とは違った方法でこの状況を変えていくのだろうか。コミカルでありつつ、現代社会に存在する事象に切り込んだ内容は、遊川和彦ならではという風にも見える。氏のヒット作『家政婦のミタ』では、長谷川博己演じる父親が遊川氏の父親をモデルに描かれていたということで、重要な役割を担っていた。本作でも、父親がどう物語に関わってくるのかにも注目したい。(西森路代)


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