高学歴ロッカーやラッパーは「存在に矛盾があるニセモノ」か?

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2017年08月12日 14:00  citrus

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出典:「Zeebra -Information Headquarters」より

■日本の高学歴ボンボンのロックなんて「しょせん小手先のお遊び」?

 

名刺を捨てた男 #010 ラッパー・Zeebra『夢を諦めて社会に取り込まれる葛藤』という記事を読んで、とある20代男子がこうつぶやいた。

 

「……でも有名な話ですけど、Zeebraは名家出身で名門校をドロップアウトしたって経歴ですよね。ロックバンドとかラッパーが高学歴ってなんか違う気がする。ビートルズは労働者階級のヒーローだったじゃないですか。大卒自体がある程度裕福なはずで、なんか、ロックンロールじゃないよな、ヒップホップじゃないよな。ボンボンほど遊びまくって悪いことするって言うけど、それを歌詞にされても、やっぱ感動できないですよね」。

 

高学歴のボンボンがロックとかラップとかやっても、どれだけワルかったって言っても、そんなの「ヒリヒリした痛み」や「抗えぬ屈辱」や「飢えの記憶」とは無縁の、しょせんモテるためだか何だかの小手先のお遊びじゃん。くだらない商業主義に乗せられてちやほやされて、ホントのところは広義の“J-POP”じゃん。そんな、 “ 反骨のロックンローラー”や “ リアルなストリート育ちのラッパー”、そして彼らのファンたちが持つ意識は根強い。そして、90年代以降いまに至るまでの邦楽シーン周辺を見渡すと、実のところ東京6大学出身や関西の有名大学、ことによっては海外名門大学出身のバンドやミュージシャンがひしめいている。

 

 

■本当の階級社会で音楽階級闘争が起こった90年代の英国と、洋楽との出会い自体がそもそもアッパークラスのものだった日本

 

「ロックバンドとかラッパーが高学歴って、なんか違うと思う」。

 

これを聞いて一番に思い出したのが90年代のオアシスとブラーの対立、いわゆるブリットポップ戦争だった。イングランド北部の工業都市、マンチェスターの労働者階級出身で、荒々しく強い訛りのある言葉を力強く壮大なメロディーに乗せ、空間もろとも鳴らすギャラガー兄弟のオアシス。ロンドンの中流階級出身で、文学好きのデーモン・アルバーンが綴る実に英国人らしい洒脱な機知と皮肉をちりばめた詞とポップなメロディ、そしてデーモンがロンドン大学在学中に結成した学生バンドという成り立ちが醸す(実際の英国社会的には “ まあまあ”の)育ちの良さと、女子受けするルックスの良さもまた特徴のブラー。ブラーがオアシスに挑戦的に喧嘩をふっかけ、オアシスが呪詛に近い嫌悪感で応じ、それを音楽業界が煽る形で、英国の根強い階級意識を巻き込んだ「労働者階級の粗野なロック」対「中産階級の洗練のポップ」戦争へと拡大し、日本の音楽ジャーナリズムもファンも熱狂した。

 

90年代に10〜20代だった私は、ご丁寧にも当時のカルチャー的記号をしっかり押さえ、海外の古着を組み合わせてわざとブロークンにしたグランジファッションを引き摺りながら米国のグランジロックを聞きまくり、25年ぶりのウッドストックをMTVで観ながら友達とオールし、一方でいかにも英国的なダークな瘴気を発するスウェードのデビューとその後の蹉跌を見守り、でも実のところは80年代以来の英国的サブカルの英雄、ザ・スミスのモリッシーが呻くように歌うもはや病的な詩に心を震わせていた。社会的背景の異なるアメリカのロックと英国のロックがともに等価値で入ってくる日本という、特殊な環境。そんな中、ニルヴァーナのカート・コバーン自殺をきっかけに米国のグランジロックがゆるやかな終息へ向かうのと双曲線を描くようにして英国で勃発したのが、オアシス vs ブラーのブリットポップ戦争だった。

 

ところが、(小汚いという言葉が語源の)米国グランジロックも、ブリットポップの英国的階級戦争も、それらを消費する日本のリスナーは、当時そもそも洋楽に出会っているとか洋楽へのアクセスがあるという時点で、わりと豊かな層だったのだ。

 

 

■日本のラッパーたちは超高学歴でボンボン揃い!

 

ぬるい洋楽ファンに過ぎない私も、一緒に音楽を聴いて “ ナイトクラビング(死語)”する周りも、そこそこ恵まれたといえる環境で”ぬくぬくお勉強して育った甘ちゃん学生”ばっかりだった。そういえば当時のヒップホップ界隈で言うと、Zeebraは慶応幼稚舎から普通部中退(ヒップホップではないが同時期のミュージシャンDragon Ash降谷 建志も初等部から高等部まで青山学院)、m-floはVERBALも☆TakuもLISAも都内のお金持ちインターナショナルスクール出身で、VERBALはアメリカでも有名なお坊ちゃん大学ボストンカレッジを卒業し、しかも大学院では神学まで修めている。KREVAは慶応SFCだ。ライムスター宇多丸は早稲田の法学部だし、Mummy-Dは早稲田の政経だ。Shing02(シンゴツー)なんてカリフォルニア大学のバークレー校(UCB)である。

 

何が言いたいかというと、90年代当時、ラップとは、芸術家や資本家など著しく文化資本に恵まれる環境に生まれた子弟だったり、海外生活が長い帰国子女だったり留学経験があったり、比較的アッパーな育ちでありながら深く米国文化に触れる機会と語学力がしっかりあって育った人だからこそ知ることも自ら奏でることも可能な、カッティングエッジな “ 輸入文化”だった。さかのぼって、日本語ロック論争が起きたような70年代では、松本隆は中学から慶応、細野晴臣は高校から立教、ロックからは少し外れるけれど坂本龍一が藝大卒なのはあまりにも有名。賛否はともかく、20世紀の島国日本人にとって、洋楽とは明らかにそういう都会のアッパーな人々の音楽であり、長らくどこか特権的なカルチャーだったのだ。

 

だが、そんな20世紀はネットの普及とともに終焉を迎え、21世紀に育った人からすれば「洋楽が特権的文化? 意味がわからない」だろう。そうだ、そうあって欲しい。

 

 

■音楽の”衝動”は経歴から生まれるのではない

 

現在、高校進学率が全体の99%、18歳時点での高等教育進学率78%、大学進学率が5割を超える日本はどれだけ経済斜陽が叫ばれようともまだまだ基本的に豊かであり、5割も大学に行くならそりゃ大卒以上のミュージシャンも出現する。2010年代の日本社会において学歴なるものが世間丸ごと上昇しインフレを起こしている以上、いわゆる政治の季節であった1960−70年代の英国のロックの萌芽結実と比較して現代日本音楽界の高学歴化を嘆いてみても、彼岸と此岸では背景が全く違うし、実は音楽としての本質も変質してきている。それに、ミュージシャンとは経歴で音楽を鳴らすものなんかではない。そこに音楽の面白さがあるのではないだろうか。学歴が高い方のミュージシャンが、そうでないミュージシャンよりも「偏差値を理由に」共感を呼んで売れるだなんて、そんな馬鹿げたことはない。 

 

今夏、フジロックフェス出演者決定を契機に勃発した「政治を音楽に持ち込むな」論争は、「ロックは元々反体制」「そもそも音楽と政治を切り離せると考えるほうがおかしい」との反論に勢いを削がれた。音楽とは、怒りでも恋でも絶望でも希望でも、心が動いた時に自然と生まれ、流れ始めるものだ。音楽の衝動とは学歴や生まれ育ちから生まれるのではなくて、人間の感情から生まれるもの。同様に、ロックもラップも、反骨のマインドから鳴り始め、人々に共鳴するものだ。もしそれでも「ミュージシャンの学歴が音楽を邪魔する」と言うのなら、それはその音楽が学校の名前に負けているという、当のミュージシャンにとっては致命的に怖い事態を示唆しているのかもしれない。

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